第93話 演説おじさん
そのおじさんは近所では有名な演説おじさんだった。
毎日、ある時間になると家の庭先で往来に向けて大声で演説をする。
「だから私は言ったんだ! あいつが私の土地を奪ったんだって! あいつが私の家に来たときに権利書を盗んでいったんだ!」
演説おじさんは口から唾を飛ばしながら、大声で怒鳴るように恨みを込めて言った。
「ねえ、いつもあんなんなの?」
「そう。内容は何パターンかあるんだけどね」
「……うるさいわよねえ」
「そうよね。それに内容もあまりいい内容じゃないわよね」
わたしたちは演説おじさんを見ないようにして、その横を通り過ぎた。
「知っているか⁉ 安田医院の医院長! あいつはな、昔不倫をして自分の病院の看護婦を妊娠させたんだぞ。そして妻には子どもが出来なかったから、その子を妻の子として迎え入れたんだ。いま、安田医院で若先生と言われているあいつはな、不倫した看護婦との子どもなんだよ!」
わたしは安田医院をかかりつけにしているので、思わず爽やかな若先生の顔を思い出していた。それから、おじいちゃん先生と言われている温厚な人の顔を。あのおじいちゃん先生が不倫を? しかも、不倫相手に出来た子どもを自分の妻の子どもとして育てた?
「ねえ、あれ、ほんと?」
「嘘に決まってるじゃない! あの優しいおじいちゃん先生が不倫なんてありえないわよ。演説おじさんの言っていることは全部嘘よ」
「うん」
そう答えつつ、わたしはもしかして本当かもしれない、と思っていた。何しろ、若先生と奥さまは全く似ていないし、奥さまはいつも陰鬱な顔をしていた。
「私はこの町の住人が何をしているか、だいたい知っているんだ! 若葉地区に住む歯科医はな、女子高生とパパ活しているんだぞ!」
え? 若葉地区の歯科医? ――うちの旦那? パパ活? 嘘でしょう?
「女子高生とホテルに入って行くのを見たんだ。何度も。全部違う子だった! 自分にも高校生の娘がいるというのにな!」
わたしはもっと演説が聞きたかった。うちにも高校生の娘がいる。若葉地区、歯科医、高校生の娘。……ほんとうに? 詳しく聞きたい。聞いて、わたしの旦那のことではないという確証が欲しい。
しかし、わたしは友人といっしょに歩いていたので、遠ざかって行くしかなかった。立ち止まったり戻ったりするのは不自然だった。友人は演説おじさんの話など聞いていないようだった。昨日見たドラマの話を熱心にしていた。わたしもドラマの話をする。友人に合わせて。
しかし、耳はずっと演説おじさんの話に向いていた。ああ、もう聞こえない。聞きたいのに。ねえ、教えて欲しい。その若葉地区の歯科医の名前は何? 林じゃないわよね? 違うわよね? 眼鏡はかけてないわよね?
ねえ、違うと言って!
「演説おじさん」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます