第43話 懐かしい人を見かけた

 仕事で移動するために、電車に乗り込んだ。車内はそれほど混んでもいないけれど、座れるほど空いてもいなかった。わたしは乗り込んで、ドアにもたれかかった。


 ふと隣の車両に目が行った。

 ――あの人は。


 懐かしい人を見かけた。

 ここにいるはずのない人。県外に引っ越して行った人。もう何年も会っていない人。でも、見間違えるはずもない。

 少し眠そうな瞳。八の字の眉毛。くせ毛の黒い髪。何かしゃべりたそうにしている唇。あの唇がわたしに触れるのが、とても好きだった。着ている服は見たことのないものだったけれど、実に彼らしい服装だった。おしゃれで、人と少しだけ違うものを好んで着ていたのをよく覚えている。色合いも、落ち着いた緑系のもので、彼が今でも同じ色合いを好きなのが分かって、なぜだかとても嬉しく感じた。


 彼は手元のスマートフォンを操作して、音楽を選んでいるように見えた。音楽が好きな人だった。耳のイヤフォンを触って、目を閉じた。あの顔を見るのも好きだった。

 もう終わってしまった恋。二度と、交わることのない、わたしたち。

 でも、こんな奇跡のような瞬間があるんだ。

 あのとき、わたしは彼のことがあまりに好きで、好き過ぎて信じることが出来なかった。


「どうして、連絡してくれないの?」

「仕事で抜けられなかったんだよ」

「ねえ、あの人とはどういう関係なの? どうしていっしょにいるの?」

「仕事仲間なんだ」


 何もかも、信じられなかった。

 働き始めた彼が急に変わってしまったかのように感じた。わたしは先に社会人になっていたけれど、彼のために一生懸命仕事を片付けて彼の予定に合わせたのに、そうしない彼が歯がゆかった。愛情がなくなかったのかと思った。他に好きな人が出来たのかとも思った。


「働き始めて、二~三年は仕事に没頭すると思う。好きな仕事だから」

「頑張って!」と応援出来たのは、実際に働き出す前だ。働き出したら、不安ばかりが増して行った。


 ――ごめんね。好きだっていう気持ちだけでは乗り切れなかった。不安の方が増してしまった。今なら分かる、あのときのあなたの苦しみ。


 彼が音楽を聴きながらリズムをとっているらしい様子が見えた。そう、あの、少し笑ったかのような顔。あの顔をしたら、せめて一曲分はいっしょにいられると思って、嬉しかった。そばに座って、彼の体温を感じることが幸せだった。


「ねえ、どうして別れなくちゃいけないの?」

「好きだから」

「好きなら、いっしょにいればいいのに」


 好きだからいっしょにいられなかった。怖くて。わたしだけが好きみたいで、怖くて。


 わたしが下りる駅で彼は下りなかった。彼は音楽の中に目を閉じていた。あの頃のように。

 さようなら。心から好きだった人。そして今でも好きな人。どうか幸せでありますように。


 わたしは駅に降り立ったあと、すぐに階段を昇らずに未来に向かう電車を見送った。





  「懐かしい人を見かけた」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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