第42話 イロハモミジ
すりガラスに紅い影が揺れた。
なんだろうと思ってそちらを見ると、猫のしっぽが見えたような気がした。
影を追って、庭を見やると果たしてそこには何もいなかった。
私はガラス戸を開けて、顔を出して庭をぐるりと見回した。やはり何もいない。
しかし、紅い影の理由は分かった。イロハモミジだ。
外に出て、葉を拾う。
今は十二月も終わりだと言うのに、見事な紅葉だった。いや、紅葉した葉が庭一面に広がっていた。前日の雨の後の色深い庭に、少し枯れかかった紅い葉は見事に映えていた。
目の端に影が過った。
影の方を向く。
やはり、何もいない。冬木が寒そうにしているだけだ。
私は縁側に座り、しばし猫の額ほどの庭を眺めた。
今日は妻も子らも外出していて、家には私しかいなかった。
また、影が過った気がした。
「春子?」
娘の名を呼ぶ。忘れ物でもして戻って来たのだろうか。わたしは影が過った方へ歩く。しかし、そこは葉を散らしながらも、まだ紅い葉をたたえて居るイロハモミジがあるばかり。
春子がまだ小さかったころ、この木の元でよく遊んでいた。緑の葉の季節には緑の葉を、紅い葉の季節には紅い葉を採って、おままごとに使っていた。葉がない時期でも、そこに座って、土を掘ったりしていたものだ。そのとき飼っていた猫も、春子のそばでうずくまっていることが多かった。猫は春子が生まれる前から飼っていたしっぽの太いぶちで、いつも春子を護るようにそばにいたものだった。
「春子?」
もう一度、娘の名を呼ぶ。
娘はもうイロハモミジの元では遊ばなくなった。長い髪をきれいに垂らして、着飾るようになった。幼さを残しつつも、土いじりをしていた自分など、まるで存在しなかったような顔をしている。
わたしはイロハモミジに小さな春子の幻影を見つつ、家の中に戻った。
先ほどまで人の気配が濃かった居間に戻る。
朝飲んだカップがそのまま机の上にあった。
私はそれを台所に持って行き、洗った。流しにあった、朝食で使った食器も洗う。
静かだった。水の音だけが、響く。
蛇口をきゅっと閉め、居間に行き、読みかけの本を開いた。
静かな休日だ。
ページをめくる音がする。
玄関で春子の笑い声が聞こえた気がした。それは小さく遠い声だった。私は、今度は動かずそのまま本に目を落としていた。
「イロハモミジ」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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