第88話 お父さん

 父が死んだ。

 もう高齢だったから覚悟はしていたけれど、父が死んだと聞き、胸がぎゅっとなった。

 わたしは父が好きだった。母よりも父が好きだった。

 あれはいつのことだっただろう。父と二人でスケートに行ったことがあった。弟も妹も、母もいなかった。わたしと父だけだった。わたしは黄色いスカートをはいていた。

 わたしは当時スケートが大好きで、でもなかなか行くことは出来なかった。そのときは何らかの事情があって、わたしは父と二人でスケートに行ったのだ。確か小学校五年生くらいのときのことだ。


 あのころ、わたしは友だちとうまくいかずクラスになじめず、重い気持ちを抱えたまま学校に通っていた。教室に入るとき、いつも足が震えた。目立っていじめられていたわけではない。ただ、誰とも口を利かない日が何日も何日も続いていた。用事があれば話しかけられる。でも、用事がないときは誰も話しかけてくれなかったし、わたしには話しかける勇気が持てなかった。グループ分けがあるときはいつも緊張していた。自由にグループを作り、わたしは一人余る。そうして先生が「そこ、人数が足りていないでしょ。岡本さんを入れてあげて」と言って、わたしはそこのグループに入るのだ。先生がいるからみんな「嫌だ」とは言わないだけ。心の中では嫌だって思っているって、ずっと知っていた。

 暗い気持ちで家に帰る。家は好きだった。学校よりは息が出来たから。だけど、クラスの中で友だちがいないことは絶対に言えなかった。わたしの弟は本当に手がかかって、母はいつも弟のことで頭を悩ませていたから、わたしはいつもきちんとしていなくてはいけなかったのだ。


 そうだ。あの日。

 母は弟がしでかしたいたずらを謝りに小さい妹を連れて「真美ちゃん、お留守番できるわよね? 洗濯物、干しておいてね」と出かけていったのだ。わたしは言われた通り、洗濯物を干した。掃除もした。宿題はもうしてあった。

 風にひらひらする洗濯物を眺めていたら、ふいに涙が出てきた。後から後から、涙が出てきて止まらくなった。

 そこに父が帰ってきたのだ。

 父はわたしに「どうしたの?」と問い詰めることもなく、ただ頭をなでて隣に座っていてくれた。そうして、唐突に「スケート行くか?」と言ったのだ。「お母さんに内緒だぞ」とも。


 お父さん。

 お父さんはそうやって、いつも肝心なところでわたしを救けてくれていたよね。わたしが弱っているときはいつもなぜか分かってくれていて、例えば、わたしにだけ大好きなショートケーキを買ってきてくれたり、こっそり図書券をくれたり、内緒で映画に連れて行ってくれたりした。

 お父さん。

 お父さんともっと一緒にいたかったよ。いつも何も聞かずにただそばにいてくれて、わたしが好きなものをそっとくれて、本当にうれしかった。お父さん、大好きだよ。





  「お父さん」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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