第135話 消え失せた、……

 確か、もう一コマ授業があった気がするのに。

 私は講師控室で平静を装いながら、必死に午後の授業が何であったかを思い出そうとしていた。事務室で聞くことははばかられる。そこまで事務の人と仲良しではないから、不審がられてしまうかもしれない。

 午前中に一コマ。午後に一コマ。

 それがこの大学での私の仕事だったはず。でも、どうしても午後の一コマがどのクラスでどんな授業をするんだったか、思い出せない。授業準備はした気がする。いや、確かにしたはずだ。鞄の中を探る。ファイルを出す。中をよく確認しても、午前の授業の資料しか出てこない。


 ごそごそしていたら、同じ教科を持つ先生が講師控室に来た。

「こんにちは。お疲れさまです」

「お疲れさまです」と私は答える。この人なら聞けるから、もう一コマの授業ことを聞きたい。

「今日の授業、どうでしたか? 予定のところまで進みましたか?」

「ええ、予定のところまで進みました」

「よかった。では、きちんと終わりそうですね。テスト範囲は、この間の打ち合わせ通りでよさそうですね」

「はい。他の先生方も同じであれば」

 この教科は五人の講師で担当しているので、足並みをそろえる必要があった。ああ、それにしても、もう一コマのことを聞きたいのに。


「あら、みなさん、いらしたのね」今度は主任が入って来た。

 三人で授業の進め方やテストの話をする。他の先生方の授業の進め具合も教えてもらう。一人、少し遅れている先生がいるらしいけれど、だいたい予定通り進んでいるようだ。


 ああ、私、午後の授業は何でしたか? どうしても思い出せない。

 思い出せないと言えば、私はさっきから、同僚の先生の名前も主任の先生の名前も思い出せないでいる。なんとか名前を呼ばなくても会話が続くようにしている。名前なまえ……なんだったっけ? よく知っている人のはずなのに、名前が全く出てこない。

 授業内容の話題にはついていける。午前中、自分がどんな授業をしたのかも思い出すことが出来る。

 だけど、同僚の先生の名前も主任の名前も思い出すことが出来ない。どうしても。

 そして、午後にあるはずの授業のことも、さっぱり思い出すことが出来ない。私はどこに行き、どのような授業をすればいいのだろう? この二人に聞けばすぐに教えてくれるはずだ。だけど、どうしても、そのことを聞くことが出来ない。


 どうしよう。いったいどうしたらいいのだろう?

 あれ?

 私は恐ろしいことに気がついた。

 私の名前は何だったろう?


 どうしよう。私は私の名前を思い出すことが出来ない。この大学で講師として働いていることは覚えている。さっきの授業の内容も覚えている。だけど、次の授業のこともここにいる二人の名前も自分の名前すら思い出せない。


 どうしよう。どうしたらいいの?





  「消え失せた、……」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!


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