第140話 彼は誰星

 夜明け前の空が好きだ。

 夜明け前、東の空に金星が見える。けの明星みょうじょう


 ふいに目が覚めてしまった夜明け前、わたしは明けの明星を探す。

 紺青こんじょう色の空が次第に紫がかって紫紺しこん色になり、さらに地上との境から薄白くなってゆく。星の瞬きが次第に消えてゆく。そんな夜明け前の金星。


 明けの明星がひかる。


 わたしは窓を開け、夜明け前の空気を吸い込んだ。

 夜が明けきる前。くらくて。

 まだ、人の区別がはっきりしない。

誰星たれぼし

 こころの中に混沌があって、まるで夜のよう。自分が何をしたいのかも、はっきりしない。くらくて、判然としない。夜道でひとの顔がはっきり見えないように。誰だかわからないように。わたしの望みや希望も、いまは判然としない。すべてがくらい中にある。

誰星たれぼし

 そんな中にひかる、明けの明星。

 わたしは明けの明星を見て、わたしのこころの中にも金星が輝いたような心持ちになった。道標みちしるべのような煌めき。


 窓から身を乗り出して、叫びたいような気持ちになる。

 空が薄明るくなってきた。薄明はくめい。なんて、美しい。

 星が消えていく。

 銀色の星が、空の明るさに吸い込まれていく。

 わたしは、空が白んでいき、朝になっていくのをしみじみと見ていた。

 もう、ひとの顔がはっきり見える明るさになってきた。「たれ」ではない。


 わたしは窓を閉めて、レースのカーテンを引く。

 コーヒーメーカーをセットして、目玉焼きを作り簡単なサラダを添える。トーストを焼いて目玉焼きとサラダのお皿にいっしょに乗せ、コーヒーが出来るのを待つ。

 コーヒーの落ちる音がこぽこぽといい音を立てた。

 部屋中に朝陽が射し込み、白い小さな部屋は光とコーヒーの香りで満たされた。


 わたしのこころの中にも朝陽が射しこんだ。

 それは細い光で、自然現象のように圧倒的なものではない。

 だけど、澄んだ空気と金星と朝の光が、わたしの中の混濁した思いをほんの少し、明るくしていた。


 ほんの少しでいい。

 少しずつでいいんだ。

 前に進めなくてもいい。

 投げ出さなければ、それでいいんだ。


 マグカップにコーヒーをたっぷり入れて、朝食が乗ったお皿を左手にマグカップを右手に持って、食卓に行った。

誰星たれぼし」とも言われる金星は、ささやかな希望をわたしに見せた――





  「彼は誰星」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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