第117話 「赤ちゃんが出来たの」
「赤ちゃんが出来たの」と、亜由子は嬉しそうに言った。
俺は一瞬遅れて「え?」と答えた。
亜由子は「だからね、赤ちゃんが出来たの。あたしとあなたの」と言って、抱きついてきた。
「え? でも、俺たち、そんな話、一回もしていなかったよね?」
「そんなって?」
「だから、赤ちゃんとか」
「うん、でも、赤ちゃん出来たの」
「そうじゃなくて、結婚とかそういう話」
「だけど、あたしたちもう二十八歳だし、ちょうどいいじゃない」
亜由子はそう言って俺にキスをしてきた。俺はうっかりキスをそのまま受けて――押し返す。
「待て待て。結婚しようなんて、言った覚えない」
「でも、赤ちゃん、出来たもの。結婚してくれるでしょう? 今度、親に会ってね? 一也のご両親にも会わせて。ね?」
ね? ってなんだ、ね? って。
俺は結婚するつもりなんて、さらさらなかった。まだまだいろいろと楽しむつもりだったし、そもそも俺には、長く遠距離恋愛をしている恋人がいるんだ。亜由子とは単なる暇つぶしだったんだ。
亜由子は俺にべたべた触り、またキスをしてくる。どうしたらいいんだよ、この女。
「ね? ってさ、俺たち最近、避妊が甘かったじゃない? まずはそこを反省しようよ」
「うん、だってそれは、あたし、赤ちゃん欲しかったから!」
「……はめたのか?」
「あん、そんな言い方、ひどくない? いま赤ちゃん欲しくても出来ないカップル多いんだよ。赤ちゃん出来て、よかったじゃない!」
いやいやいや! そこは両者の合意が必要だろう。少なくとも、俺はお前と結婚したくないし、お前との子どもは要らないんだよ。
亜由子はスマホを取り出して、両親にLINEをしているらしい。参ったな。
「ねえ、一也、来週の土曜日大丈夫でしょう?」
「え? 来週? 急過ぎない?」
「こういうことは早い方がいいのよ。土曜日ね!」
亜由子はにまにま笑いながらスマホを操作する。
「なあ、亜由子。本当に妊娠しているのか?」
「してるわよ。ほら」
亜由子は俺に母子手帳を渡して来た。
「心音が確認出来てから話したの、念のために。それからこれ」
亜由子は数枚のエコー写真も渡す。俺が黙って写真を見ていると、「あたしたちの赤ちゃんよ」と亜由子がにっこりと笑った。
どうしたらいいんだろう? どう片づけたらいいんだろう?
亜由子は有無を言わせず来週の予定を決めてきた。来週の土曜日、俺は亜由子の家に行き、いっしょに昼食をとるらしい。手土産とか服装とかも指示してくる。亜由子はうきうきとあらゆることを決め、それから「お腹空いちゃった。ごはん、食べに行かない? あたし、中華食べたいな!」と言った。
俺たちはアパートの部屋から出た。
俺は亜由子が鍵をかけるのをじっと見ていた。でも、亜由子が歩き始める前に先に階段に向かって歩き出した。亜由子のお腹の中にいる豆粒くらいのまだ命なんて言えないもののことで頭がいっぱいだった。
どうしたらいいんだろう?
亜由子が「あん、待ってよ、一也!」と言って、少し小走りで来て俺の腕を掴んだ。俺は掴まれた腕が気持ち悪くて反射的に腕を払った。
「きゃっ!」
亜由子は小さく声を上げると、俺の目を見ながら階段を落ちて行った。あっという間だった。階段の一番下まで落ちると亜由子は動かなくなった。
あれ? もしかしてこれで問題は解決した? 俺、亜由子突き落としていないよね。勝手に落ちたんだよね。
……あいつ、ちゃんと死んでるよね? 少なくとも子どもは流れたよね?
亜由子の身体の下に赤い水たまりが広がって行った。
「『赤ちゃんが出来たの』」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます