第2話 虫
ブーンという羽音がして、二センチくらいの虫が飛んだ。
最初、この虫を見たときはゴキブリかと思って驚いたが、そうではなかった。もう少し小さく丸みを帯びていて、光るような銅色だった。
虫はなかなか外に出られないようで、ずっとうちにいる。数日前から同居している。いなくなったかな? と思ってしばらくすると、どこからか飛んでくる。脱衣所で遭遇することもあるし、台所で遭遇することもある。
虫は好きではない。ゴキブリなんてもってのほかで、遭遇したらいなくなるまで落ち着かない。
でもなぜだろう? この虫には親しみのようなものを感じている。そして数日「同居」している。姿を見ることはあまりなく、ブーンという羽音でふいにその存在を認識して、なんとなくほっとしている。
今日は残業だった。疲れた。予定外の残業は本当に疲弊する。でも今日は遅くなっても恋人が部屋に来てくれると約束していた日だった。金曜日だから。
私は部屋に入り、朝散らかしたままだった食器と今日のお弁当箱を洗った。洗濯ものも片付け、掃除機をかけていたときLINEの通知音が鳴った。
ごめんと謝る猫のスタンプに続けて〔今日は行けない〕とあった。〔どうして?〕と送る。〔疲れた〕と返ってくる。私も疲れたけど、でも会いたかった。〔そう〕〔わかった〕〔またね〕
疲れが増した。〔またね〕って、いつのことだろう? つきあい始めたころの情熱はもう消え去っていた。大切な存在ではあったけれども。かと言って、約束していた日はやはり楽しみだった。だけど最近、こういうことが多い。
掃除機をかけるのはやめ、コーヒーを淹れた。コーヒーメーカーから、コーヒーの落ちる音がする。ふいに、ブーンという音もした。
音のした方を見ると、テレビの下のところに虫がいた。
姿を見たのは久しぶりだ。しかも、下にしがみついている格好なので、お腹が見える体勢だった。
お腹は鮮やかなオレンジ色だった。
思わず、まじまじと見てしまう。細い脚が頑張ってテレビにしがみついている。
目が合ったような気がした。
私はメモ用紙を持ってきて、そっと虫に近づけた。虫は白い紙にそろそろと乗ってきた。
メモ用紙の上の虫はやはり光るような銅色だった。
窓を開け、そっと紙を差し出す。
虫は夜の闇に吸い込まれていった。
さよなら。
月のない暗い暗い夜。点在する家々の灯り。もう姿も見えない虫。羽音ももう聞こえない。
さよなら。
わたしは窓を閉め、しっかりと鍵をかけ、カーテンを引いた。
「虫」 了
*ショートショート連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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