第79話 既望
満月は昨日だった。
少しずつ月は欠けていく。でも、まだもったりと丸い。
私はカーテンを開けたままの天窓から月を眺めた。
コーヒーの香りが部屋に満ちて、夜は静かに蒼く部屋中に広がっていた。
温かいコーヒーを一口飲む。薄い。コーヒーの分量を間違えたようだ。
……いろいろなことが、少しずつうまくいかなかった。
仕事でミスが続いた。簡単な計算を間違えていたり、記入すべきことが抜けていたり。一つ一つは些細なことだ。しかし、なんとなく暗い感情が私を支配した。買い物に行くと、目当てのものがなかった。何より一番気持ちを落ち込ませたのは、写真を保存していたSDカードが破損してしまったことだ。そのSDカードにはミチルとの写真がたくさん詰まっていた。まだパソコンにもデータを入れていなかったし、想い出が全て消えてしまったように感じ、もうおしまいだ、と思った。
薄いコーヒーを飲み干す。
コーヒーカップをテーブルに置いたら、かつんという冷たい音がした。
ミチルには最近、会えない日々が続いていた。ケンカをしたわけではない。何か大きなことが、二人の間に起こったわけではない。ただ、約束をしていても、なぜか流れた。二人の間にあった情熱は、もう消え失せているのだろうか。つきあい始めたころの情熱がなくなっているから、会えないような気がしてしまっていた。……ミチルは私のことが、もう好きではないのだろうか?
その考えは私の心臓に突き刺さった。コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを捨てると、新たにコーヒーを淹れることにした。夜だけど、濃いめのコーヒーが飲みたかった。少し苦い味のコーヒー豆にした。
コポコポコポという音がキッチンに響く。
天窓から見えていた月は見えなくなっていた。私は天窓のカーテンを閉めた。
……まだ希望はあるのだろうか。
私はコーヒーメーカーの音がしなくなったので、新しいコーヒーをカップに注いだ。そのままキッチンで一口飲む。――おいしい。今度はうまく淹れられた。
テーブルに戻り、ゆっくりとコーヒーを飲んでいたら、スマホが点滅した。――LINE通話? ……ミチル?
「もしもし?」
「もしもし! スグル? あのね、月見て、月! すっごくきれいなの。満月だよ!」
「……満月は昨日だったよ」
私は思わず口元に笑みを浮かべながら言った。場所を移動して、月が見えそうな窓際に移動し、カーテンを開けた。月が見えた。
「ねえ、月、見てくれた? 昨日が満月だったのかもしれないけど、今日だってきれいだよ」
「見たよ。きれいだね」
「ね、きれいだよね! ぼやっとしていて」
「うん、きれいだ」
「いっしょの月を見ているっていいでしょう?」
「……そうだね、ミチル」
私はあたたかいもので満たされながら、優しい声を出す。
「ねえ、今日の予定、キャンセルしてごめんね。明日はどう?」
「会いたいよ」
「あたしも。いっぱい話したいことがあるんだよ」
満月が少し欠けた月光のもと、希望の光は愛する人からもたらされた、と泣きたいような気持になった。
「既望」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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