第106話 古い写真
懐かしい写真が出て来た。古い写真。まだ携帯もスマホもなかったころの。しかも、フィルムカメラで撮った、紙の写真。
わたしはしばらくその写真を眺めた。
わたしは若く溌溂としていて、そしてやはり若く溌溂とした男性と、少しぎこちなく、笑っていた。誰かに頼んで撮ってもらった写真だろうか。水族館の前だった。
そうだ。
初めていっしょに出かけたのは、ここだった。もうすっかり忘れていた。
懐かしい。
思い出した。わたしは服を選び直していたら、少し遅刻してしまって、今みたいに携帯で連絡が出来るわけでもなかったから、すごく焦りながら待ち合わせに行ったんだ。息も髪も乱れてしまって。わたしは乱れた髪を気にしながら「遅れてごめん」って言ったんだ。
あのひとはほっとした笑顔で「ううん、よかった来てくれて」と言った。嬉しくて早く来てしまって、長い時間を待って約束の時間になってもわたしが来なかったから、もしかして日にちを間違えたんじゃないだろうか、もしかして時間を間違えたんじゃないだろうか。……もしかして、いっしょに出かける約束が夢だったらどうしよう? などと考えていたんだよ、と後から聞いた。
わたしたちはとても静かに水族館の中をゆっくりと歩いて見て回った。薄暗い館内の水槽の中に、魚たちが泳いでいた。いろいろな種類の。特に、大きな水槽の中でさまざまな海の生き物が泳いでいるのが好きで、わたしたちはことばもなく、ただいっしょに見ていた。エイがひらひらと、まるでスカートの裾を靡かせるようにゆったりと泳いでいくさまを見ていたら、なんだかこころが、すうっと静かなあたたかさの中で、ほっと一息つけるような気持ちになった。
あのひとがわたしの手を掴んで、そして握った。
わたしは水槽から、あのひとに視線を移した。少し怒ったような顔。……いまでは分かっている。あれは、すごく照れた顔。なんて愛しいのだろう。
わたしは、すこしがさがさしたあのひとの手のひらを嬉しく思いながら、そのあとは少し緊張して魚たちを見た。そして、出口のところで、写真を撮ったんだ。一人ずつ撮ろうかな、と思っていたら、「シャッター押しますよ。わたしたちも撮ってください」と声をかけられたんだった。
これが想い出の始まり。
わたしは思いついて、写真を写真立てに入れて、ピアノの上に飾った。
「お。なんだ、この写真。……懐かしいな」
リビングに入って来た夫が言った。
「整理していたら、出て来たのよ」
「へえ。……若かったなあ」「そうね」
皺が入った分、白髪が増えた分、ずっといっしょに過ごしてきた。
今度の週末には、わたしたちの娘が結婚する相手を連れて、うちに来る。
娘たちの想い出の始まりは何か、聞いてみたいと思った。
「古い写真」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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