第62話 年越し蕎麦

 お蕎麦屋さんが一年の中で一番忙しい時期、大晦日。狭い店内はお客さんでいっぱいだ。

「いらっしゃいませ」、注文をとり、注文内容を伝える、出来た料理を運ぶ、お会計をする、「ありがとうございました!」。

 忙しいけれど、大晦日をここで過ごすお客さんはなんだかいい顔をしているように思うから、充実感でいっぱいだ。


 長年連れ添った夫婦がいる。二人とも同じ天ぷら蕎麦を食べている。この二人は毎年来てくれている。そして、毎年同じ天ぷら蕎麦だ。

 座敷には赤ちゃんを連れた若い夫婦がいる。赤ちゃんが泣かないよう気をつけながら食事をしている。赤ちゃんが少しでもぐずったら、すぐにどちらかが抱っこをしているさまがなんとも好感が持てる。大丈夫よ、赤ちゃんが泣くのは当たり前だから。

 こちらのテーブル席は小学生くらいの子ども二人と夫婦が座っている。にぎやかなおしゃべりが幸福に響く。いいなあ、やっぱり食事は楽しいおしゃべりといっしょにあるといい。

 今、四人家族が席についた。夫婦と、中学か高校くらいの息子二人だ。このくらいの年齢になっても、年越し蕎麦を家族で食べに来ているところが素敵だ。


 お店の中央には小さな鹿威しがあり、いつも季節の植物で彩りを加えているのだが、今日は椛と山茶花で美しく飾ってある。店内は薄暗く、それは心地の良い薄暗さだ。木の柱や木の机に、橙色の光が優しく落ちる。店内音楽はなく、食事をする音やさざめくようなおしゃべりが柔らかく空間を満たしていた。


 ドアが開き、暖簾をくぐってお客さまがまた一組訪れた。店内がいっぱいであることを告げ、お近くでお待ちくださいとお願いをする。大晦日だからねえ、とにこやかに笑って、じゃあ、近くで待っているよ、と片手を上げ、一旦お店から出てゆく。


 今日はみんなが笑顔だ。それは、口元をほんの少し上げるような静かな微笑みだった。

「ごちそうさま、おいしかったよ」「ありがとうございます」

 そうして夜の中に帰ってゆく。家族で。


 それぞれの家族が一つずつ光を灯して歩いているような、そんな錯覚に囚われた。夜の暗さの中を、それぞれの家族がそれぞれの色の光で歩き、まるで星のように優しく瞬いているような、錯覚。どの家族も夜空に瞬く星のよう。太陽のような圧倒的な輝きではない。でも、だからこそほっとひといきつけるような灯。


 今日のネイルは爪先に星の輝きをあしらった。優しいピンク色に金色の星。大晦日の忙しい一日を乗り越えようという気持ちでネイルした。忙しく働く中の一瞬、爪を見ると元気になれる。


 四人家族が帰り支度を始め、妻と思しき女性がレジに来た。伝票を忘れてレジに来て、夫が伝票を届ける。「おっちょこちょいだなあ」という言葉が聞こえる。笑い合う様子から、普段の二人が容易に想像出来た。

 会計を済ませると、その女性が「爪、きれいですね」と言った。

 わたしは今日の忙しさがいっぺんに吹き飛んだ気持ちになって「ありがとうございます」と言った。

 

 ――なんていい一日なんだろう。一年の終わりが今日でよかった。





  「年越し蕎麦」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!


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