第17話 タブレット

 ぶどう味のタブレットを一粒、口に入れた。

 ぎりっと嚙み砕くと、口の中に甘味が広がった。私はスマホで地図を見ながら、目指す家にどうしても行き着けず苛々して、もう一粒タブレットを口に入れ、噛み砕いた。

 昔から、ラムネもタブレットも噛み砕いて食べていた。飴ですら、噛み砕いてしまう。ぎりぎりぎり。


 ふと音がしてそちらを見ると、目指す家があった。ああ、渡辺さんの家だ。ようやく辿り着いた。チャイムを鳴らす。

「米田自動車工場株式会社の峯島と申します」

 努めて明るい声を出し、返答を待った。

 すると、古い引き戸ががらりと開いて、陰鬱な女性が現れた。見た目もひどい。化粧けはなく、ぼさぼさの髪はうねりをもって広がり目の下には隈があり――血? 女性の指には、何か赤黒いものがこびりついていた。


「こんにちは! 私、米田自動車工場株式会社の峯島、と申します。豊さんはいらっしゃいますか?」

 指先の血のようなものが気になったが、明るく言った。

「主人はおりません」

「本日十三時で、お約束していたのですが……」

「主人はおりません」

「あの――」

 ふと、玄関の奥を見ると、開いたドアから何かがはみ出しているのが見えた。――髪の毛? どうしてあんなところに、人の髪が? 寝転んで?


 するとその黒い毛が動き、玄関に向かって来た。私はびっくりして、思わず一歩下がった。黒い毛が通り過ぎた後には、何か赤黒いものが点々とついていた。

「こてつ!」

 女性は黒い毛の塊を抱きとめた。――よく見ると、その黒い毛の塊は毛足の長い猫だった。

「あ! お前、絵の具を踏んだね。足に絵の具がついているよ」

「絵の具?」

 私は女性の指にこびりついた赤黒い色と、廊下の猫の赤黒い足跡を交互に見た。


「すみません、猫がいたずらをして絵の具をこぼして、片付けていたところにチャイムが鳴って。慌てて出たら、この子、絵の具を踏んづけたみたいで。――私、趣味で絵を描くものですから」

「それは大変なときに申し訳ありませんでした」

「いいえ。それより、お約束していたのに、主人が不在ですみません」

「いえいえ。またご連絡いたします。ご主人によろしくお伝えください」


 なんだ。不気味に思ったけれど、理由が分れば何でもないことだ。約束をすっぽかされたことは困るけれど、また連絡をすればいい。

 私はその家を出て、会社に帰ろうとした。

 ――帰れない。辿り着いたときと同じように、なぜか道が分からない。


 タブレットを一粒、口に入れた。ぎりぎりぎり。何か、音がした。渡辺家の中から。私はまだ渡辺家の前にいた。家の中から、音がする。ぎりぎりぎり。何の音だろう? 嫌な音だ。ぎりぎりぎり。切れないものを無理やり切るような。

 帰らなくては。――地図、地図を見よう。


 私はスマホを取り出した。ぎりぎりぎり。嫌な音から、早く離れたい。





  「タブレット」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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