第76話  暁闇

 そっとベッドから抜け出した。

 裸の躰に大き目のTシャツだけ羽織る。大丈夫、頼人は起きていない。

 カーテンをそっと開けて、窓の外を見る。

 もう明け方だ。でも、月はない。


「月のない明け方のことを暁闇あかときやみって言うんだよ」

 ふいにあの人の言葉が脳裏に浮かぶ。別れて何年か経つのに、私の頭の中のあの人は、どうしてこんなにも鮮やかに、いつでも再生可能なんだろう? 

 私はあの人が好きだったコーヒーを淹れた。少し苦いコーヒー。あの人はこの部屋に来たことはない。でも、どうしていつまでも、存在しているのだろう。


 ベッドから頼人の声がして、そちらを振り返ると、寝言みたいだった。かわいい。

 私はコーヒーを片手に頼人のそばに行き、そっと彼の頬を撫でた。

 整った顔。寝顔もきれい。

 頼人はなんで私とつきあっているんだろう? 不思議。もっとかわいい女の子、いるのに。……愛しい子。

 私は眠っている頼人にキスをした。

 それから、窓辺に戻り、空を眺めた。


「きみは若いから、明け方に目を覚ますことはないだろう」

「ぼくはときどき目が覚めてしまうんだ。そうして、明け行く空を眺めるんだよ」

「夜が明けて、新しい朝の気配がして。そういうのを見ているのが好きなんだ」

 あの人はそう言って、さみしく笑った。


 さみしく見えたのは、なぜだろう? もう、あの人が別れを予感していたから?

 あの人と別れて、その後、何人かとつきあって。

 でも不思議だ。

 別れたあと、思い出すのはあの人だけだ。

 私より八つ年上の不器用な人。


 私はベッドで健やかに眠っている頼人を見た。

 頼人は私より八歳若い。不思議だ。私はいま、あの人と同じ立ち位置にいる。

 経験も知識も、恋愛の駆け引きも、私の方が上だ。だから、一見立場が上に見える。でも、ぜんぜんそんなことないんだ。

 あの人も同じように思っていたんだろうか。


 私は引き出しから煙草を出し、火を点けた。開けた窓から、煙を吐き出す。

 明け方のコーヒーと煙草と。

 いつの間にかそんなものが似合うようになってしまった。

 ――引き出しの奥に何かあった。

 手紙だった。しかも、メモみたいな手紙。

「おはよう。よく眠っているから起こさずに行くよ。また今夜・M」

 癖のある、あの人の文字。


 私は一瞬眺めたあと、その手紙を四つに破ってゴミ箱に捨てた。





  「暁闇」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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