第32話 つるし雛
ふいに風がふいて、つるし雛が揺れた。
ずっと飾ってあったから、色褪せたつるし雛。
雛人形を三月三日が過ぎても飾っておくとお嫁に行けないという。でも、つるし雛を一年中ずっと飾っていても、あの子はちゃんとお嫁に行った。よかった。
また、つるし雛が揺れた。子どもの健康と幸せを願って作られたつるし雛。
これは純子が生まれたときにお客さんが作ってくれたものだ。着物の端切れを使って。どんなに嬉しく誇らしかったことだろう。純子もずっとこのつるし雛を宝物にしていた。幼い頃はつるし雛を見せたら泣き止んだし、ランドセルを背負っていた頃は、店先に飾ってあるこのつるし雛を学校に行くときと帰ってきたとき、大切そうにそっと触ったものだった。
江戸時代から続いたこのお店ももう仕舞いかしら。
私はちくりと胸を痛くしながら、反物の並ぶ店内を見つめる。
ふいに純子が反物を並べて笑顔でいたころの情景が蘇る。あの子は着物が好きだった。
でももう、純子は結婚をして家を出て行った。着物にも反物にも興味を持たなくなった。そしてつるし雛にも。
もう着物なんて流行らないわよ、と純子は言った。そして古いこの家からも、ご近所さん付き合いが濃いこの土地からも逃げるようにして行ってしまった。
つるし雛がくるくると舞う。
子ども? 子どもは要らないわよ。正志さんとそう決めたの。もしかして何年か後はほしくなるかもしれないけれど、とりあえず今は子どもをつくる気持ちはないの。仕事は忙しいし、二人の時間も必要だし。子どもなんていたら大変じゃない。仕事を辞めなくちゃいけなくなるかもしれないし。え? 仕事は辞めないわよ。わたしはわたしの人生を生きるんだから。子どもに支配された人生を送りたくないの。
つるし雛がくるくると舞う。今日は風が強い。
私はお店をしながら子育てをした。無我夢中だった。純子と純子の弟の勝を育てた。私自身の人生なんて、考えたこともなかった。目の前にあることを一つ一つやっていったら、今の私になった。
私はつるし雛にそっと触れた。そのとき、自分の手が目に入った。
わたしはね、お母さんみたいになりたくないの。きれいでいたいの。
純子の爪は長くきれいに整えられ、そしてきれいな色に塗られていた。そして手もつややかに美しかった。
私の爪はいつでも短く切られ、そしてマニキュアすら塗ったことがない爪だった。手もお世辞にもきれいだとは言えなかった。荒れた、がさがさした手だ。
私は自分の手をじっと見つめた。純子や勝のおむつを替えた手、ふたりをだっこした手、毎日ごはんをつくった手、中学になってからは毎日お弁当も作った手、掃除をした手、お店の仕事をしてきた手、私の宝物を大切に育てた手。
私はこれでいい。今の私でいいんだ。
つるし雛が「そうだね」というように優しく揺れた。
「つるし雛」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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