第73話 ゆり
庭に百合の花が咲くようになった。
「ねえ、百合、植えたの?」
「ううん、植えていないわ。種が飛んで来たのかしら」
妻の智子は不思議そうに言う。「でも、百合、きれいよね」
百合はするすると青い茎を伸ばし、その頂に白く儚げな花を咲かせた。百合はゆらゆらと揺れる。「わたしよ」という言葉が聞こえた気がして、私は庭の百合をもう一度見た。「わたしよ」「わたしよ」「わたしよ」
「ねえ、何か言った?」
「え? 何も言っていないわ」
私は、庭の百合を眺める。百合が、「わたしよ」と言っている声がはっきりと聞こえた。その声は私にしか聞こえないのだ。
ゆり――由梨。
忘れられない名前が脳裏に鮮明に蘇った。私はコーヒーを飲みながら、そっと庭の百合の花を見つめた。
智子とはお見合い結婚だった。四十歳近くなっても独身でいた私に、母親の友人が「会うだけでもいいから」と持って来たお見合いだった。
智子は静かな女だった。私より五歳ほど若かった。出会いがないまま年齢を重ねてしまい、なかなか結婚しないので周りが気を使ってお見合いをさせたとのことだった。智子は「わたしは静かに暮らしたいだけなのです。でも、結婚していないと、周りがいろいろうるさくて」と言って、ちいさく笑った。その笑顔を見た瞬間、私はこの女と結婚しようと思った。全く唐突に。
「じゃあ、私と結婚しましょう?」
「え?」
「私も静かに暮らしたいのです」
私はそう言って、同じように少し、笑った。
*
私には忘れられない恋人がいた。彼女――由梨は、恋愛の熱情は最高潮のときに、病気になってあっという間に死んでしまった。子宮癌だった。子宮癌だと分かったとき、由梨は私に「別れましょう」と言った。私たちは結婚の約束をしていたのだ。子宮を摘出するのであれば、結婚することは出来ないと。
「そんなことで別れられない。子どもが欲しいから由梨と結婚したいわけじゃない。由梨だから、いっしょにいたいと思ったんだ」
由梨は涙を浮かべて指輪を受け取った。でも、正式に結婚する前に逝ってしまった。そして私は結婚することなく、そのまま十年を過ごしたのだ。
*
「あ」
「どうした?」
「動いた」
智子は大きなお腹を撫でた。私もそっと、智子のお腹を撫でた。ほんとうだ動いている。
「ねえ、もうすぐね」
「うん」まさか、自分が子どもを持つ日が来るとは思わなかった。
ふと庭を見ると、百合の花が嬉し気にゆらゆらと揺れていた。「おめでとう」「おめでとう」「うれしい」「あなたが幸せで、うれしい」「おめでとう」
涙が自然にこぼれた。
「幸せになって」とゆりは言った。「あなたが幸せだとうれしい」と。
私は智子のお腹に耳をつけて、子宮の音を聞こうとした。小さな命の心臓の音が聞こえたような気がした。
「ゆり」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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