第四節 道とすべきは常の道に非ず

 川辺から十分距離を取ってから、辛悟はやおら手を掲げる。痩せ男の剣を振り下ろそうとしたその手首を、掲げた手刀で受け止める。そのまま払うようにして流し、もう一方の肘を相手の開いた脇腹に打ち込んだ。ぼきりと肋骨の折れる手応え。この頂肘ちょうちゅうを打ち込むため、辛悟は足場の良い位置へと逃げていたのだ。固い地面と強い踏み込みで威力は倍増している。痩せ男は斬りかかった勢いのまま倒れ込み、ゴボゴボとひとしきり血を吐くとそのまま動かなくなった。死にはしないだろうが酷く肺を傷つけたはずだ。もはや立ち上がれまい。

「ひぃぃぃぃ、ふひぃぃぃぃ、ぶるっふぃぃぃぃぃぁぁぁぁぁ」

 豚の断末魔のような声を上げ、振り向けば李白が岸に再上陸している所だった。水中で暴れ回ったからか体中にまとわりついていた藻や水草の類はとうに落ちてしまっていた。それを追っていた丸顔はというと、川の真ん中でぷっかりと浮かんでいる。水をたらふく飲んでしまったらしく、その腹ははちきれんばかりに膨れ上がっていた。

「ふふふふふ、わわわわしの手にかかればばばば、ざざざざっとこんなものよよよよ」

 がたがたと顎を震わせながら李白は自慢げに言う。深場まで誘い込んでから脚を引き込み溺れさせただけじゃないか。横目でしっかりそれを見ていた辛悟は心中やれやれと肩をすくめた。

「災難だったな。これに懲りたら深酒は止めるが良い」

「ふん、この阿呆め。こうなることまでわしはちゃあんとお見通しじゃわい」

「じゃあなんでイカサマをバラしたのかよ?」

「おわぁぁぁぁっと! よくよく見ればお主、昨日わしとの勝負中に女を残して逃げおった腰抜けではないか!」

 今ごろ気づいたのかよ。と言うか、俺は腰抜けなんかじゃねぇぞ。――辛悟が言うよりも早く、李白はべらべらと一方的にまくし立てる。

「あの後わしはお主の連れから華麗に巻き返しを決めて見事勝利したのじゃぞ!? それが何じゃ、わしが次にあやつらと対戦しておる間に姿を消してしまいおって。わしとの晩酌は一体どうなったのじゃ、えぇ? 酒と女こそがこの世の唯一無二の楽しみであるというのに、その半分が消え失せては残る楽しみは更に半分じゃ! つまり女こそがこの世の楽しみの四分の三を占めておると言う事なんじゃぞ、わかるか!?」

「……では酒がない場合はどうなる?」

「同じ理屈じゃ、酒がなければ女とも碌に楽しめぬ。つまりこの世の四分の三は酒なんじゃ! おお、つまり足し合わせれば一つと半分になる。両方揃えばこの世は並の五割り増しで楽しめるという事か!」

「んなわけねーよ」

 それは一体どんな理屈だ。しかし辛悟ももはやそんな世迷い事にかまけるつもりはない。

「阿遥は実際恥知らずの性悪女だから気にするな。それよりも俺が気にするのはお前が阿遥を負かしたという事実の方だ。あれもなかなかの強者のはずだが、一体どのようにして勝ったかご教示願いたい。まさか、それもイカサマとは言うまいな?」

「イカサマぁ~? わしがそんなセコい事をするような男に見えるとでも言うのか?」

 つい先程の騒動は何が発端だったろうか。面倒なので適当に頷いてやった。李白はつかつかと歩み寄り、辛悟の目の前にどっかと腰を降ろした。落ちていた小枝を手に取り、地面に縦横の線を刻む。

「そぉーんなに昨日の顛末が不服と言うなら、良かろう、今一度勝負じゃ。わしは最初ここへ打ち、次いでお主がこちらへ打った……」

 そう言って昨日の対局を初手から順に再現していく。辛悟も腰を降ろし、その内容に間違いがないことを確認する。そして、最後に阿遥が打った場面までやってきた。

「よぉしそれではここからが本番じゃ。この後のわしの手はこれじゃ。さあ、次を打て」

 辛悟は局面を見極め未だこちらが優勢であることを確認し、次を打った。すかさず李白がその次を打つ。おそらくは昨日の阿遥も同じ手を打ったのだろう。続く手番でも李白は即座に打ち返してきた。

(ふむ、確かに少しずつ巻き返しに来ているな。が、それだけだ。こちらの優勢を覆すには今一つ決定打に欠ける)

 じわりじわりと白が盤上に広がりつつある様を眺めながら、辛悟は次の手を打った。すると、ふと李白の手が止まる。悩むようにしながら頬を撫で、しかし顔には笑みを浮かべる。

「なるほど、貴様はそう来たか。あの娘はこちらへ打ったのじゃよ。これで流れが変わるわい。いや、むしろ変わらぬと言うべきか」

 李白が指した位置もまた、辛悟が今し方打つべきかどうか迷った場所である。この場面で言えばどちらに打とうが大差はない。辛悟が阿遥と異なる手を選んだのは、全くの偶然である。

 そのまま十数手を続けたが、そのうち白の巻き返しが次第に衰え始めた。先のような勢いはなく、そして遂に李白は枝を放り投げた。

「ふはは、負けじゃ負けじゃ。わしの負けじゃ。たった一手の違いじゃが、そこで勝ちに繋がる方を選び取るのもまた実力じゃな。この勝負、わしの負けじゃ」

 ぽいと枝を放り出すなり、そのまま仰向けにごろりと倒れる。辛悟は今一度地面に描かれた盤面を見下ろした。

(勝てたとは言え、あそこからの巻き返しは流石なものだ。むしろ巻き返すために抜き差しならなくなった白石を捨てた物とも見て取れる。それを計算の上でやったのならば俺より遙かに腕が立つことになるぞ)

「……全く、常道に外れたやり方だが見事なものだ。俺もあそこで阿遥と異なる手を選んでいなければ、同じく敗北していたのかも知れない。やれやれ、囲碁勝負だけは唯一他人に負けないものと思っていたのだがな。腕利きはどこにでもいるものだ」

「止せやい、照れるじゃないかもっと言え」

 言わねーよ。心中で吐き捨てながら立ち上がる辛悟。ふと視界の端にまだ気絶したまま倒れ伏した痩せ男が。そう言えばと思って川面を見ると、丸顔の男は既に流されて姿が見えなくなっていた。

「さぁて、わしも道草喰ってる暇はない! ここらで退散させてもらうぞぃ」

 その横では李白もまた立ち上がってスタスタと歩き去ろうとしていた。一瞬それを見送りそうになった辛悟だったが、慌ててこれを呼び止める。

「おい待て、どこへ行くつもりだ?」

「はぁ? 何を言うておるんじゃ、酒を呑みに行くのじゃよ」

「そっち森じゃん」

 辛悟の指差す先、李白が向かおうとした先は街とは反対方向の森へと続く細道だ。どう考えたってそちらに酒楼が存在するとは思えないのだが。

「どあほう! わしがいつ街へ戻ると言った!? わしがどこへ行こうと貴様には関係なかろう。わしの行く道はわしが決めるんじゃ。先の対局で貴様が二つの手から一つを選んだ時、わしがもう一方を選ぶよう諭したか? 貴様の手は貴様が選ぶし、わしの行く道はわしが決める――そう、道の道とすべきはつねの道に非ず、じゃ!」

 視線は泳ぎ無意味に腕を振り回し、明らかに動揺している。絶対これは誤魔化そうとしているな、と思いつつ、辛悟の頭にはふと過ぎるものがあった。

(道の道とすべきは常の道に非ず、か。これは老子の言葉だな。正しいと思える方法こそが正しいとは限らない……。確かにこいつが先の対局で見せたものは定石に縛られない、それでいて正しい攻めだった。まあ、これの場合は自由奔放と言った方が正しいのだろうが)

「――なるほど、そうかも知れないな」

 瞬間、ここ数年の出来事が脳裏に蘇る。兄が死んでから、自分は親や祖父に求められるまま定められた道を歩んできた。歩もうとしてきた。しかしそれこそが道にあって常の道ではないのではなかろうか。昨日も辛家から出て行けと言われ、怒りこそすれ自分はそれに従うつもりでいる。もう少し、自分で自分の生きる道を選んでも良いのでは?

「おうなんじゃ、出来損ないの自分を正当化できる理由が思いついたような朗らかな顔をしおって」

「的確だなおい!?」

 いやむしろこいつ、頭の中を読んだのか? しかし辛悟が問うよりも早く、李白は駆け出していた。

「ふはははは! そうじゃそうじゃ、道とすべきは常の道に非ず! 常の道に非ずぅぅぅぅ!」

 発狂したのか、一直線に脇道すらも外れて草陰の合間に突っ込んで行った。おい待てそちらは毒蛇やら熊やらが出るんだぞ。辛悟も慌ててその後を追う。李白の足はまるで地面すれすれを滑空するかの如く素早い。みるみるうちにその後ろ姿は遠くなる。辛悟は一瞬考え、迷い、しかし次に大きく踏み出した。

「待て、俺も行くぞ。俺も常ではない道を行くぞ」


(了)

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