第四十三節 大いなる悟り
戴天山を降りた不空は、しばし路傍の石を見つめた。そしてかつてこの場で見た光景を思い出す。あれは李白と翡蕾と、三人で武芸を学び始めた直後の事だ――。
修練の後、不空は寺の用事で買い物に行くのと、李白は寺で禁じられている酒が飲みたいのとで三人は一緒に山を降りた。すると、この路傍の石に腰掛ける見覚えのある姿を見つけたのだ。
「あっ、お前らは!」
視線に気づいた相手もまたこんな場所で出会うとは思ってもいなかったらしい。ぱっと飛び上がって身構えようとする。二人は馬参史と閔敏であったのだ。李白と不空が懲らしめて以来姿を見かけなかったが、その顔はどちらもやつれて生気がなく、咄嗟に握った武器を持つ腕にも力が入っているようには見えなかった。
「そんなへろへろの状態で、無理をするでないぞ」
李白が言うのへ、馬参史は「うるせぇっ」と鉤剣で斬りかかる。が、李白の袖の一振りで吹き飛ばされ、ずでんと尻餅を突いた。閔敏が慌てて駆け寄り抱き起そうとするが、力が入らないのか一緒になってぺたんと腰を降ろした。仕方なく李白を睨み上げて罵倒する。
「こらっ、兄貴を苛めるな! もう十日も水以外口にしてないんだよ、酷いじゃないか!」
「えっ、十日も?」
驚いた翡蕾はすぐに馬参史の横に腰を降ろすと、その手を取って脈を診る。確かに脈はか細く力が抜けきっている。有無を言わさずに閔敏の手首も取ってみれば、こちらも同様だ。
「どうして何も食べていないの?」
「お前が言うなよなっ! 叙修兄さんはいなくなっちゃうし、お前からは金を巻き上げられなくなるし、今更真っ当に働くなんてあたしらには出来ないんだよ!」
「閔敏、それ以上言うな。自分から恥をかくことなんてないぞ」
馬参史は閔敏を制して、そしておもむろに翡蕾に笑いかけた。
「滑稽だろう? お前を散々いたぶってきた相手が、こんな風に野垂れ死のうとしているんだ。報いを受けたんだよ、俺たちは。――今なら簡単に、殺せるぜ?」
「そんなっ!? 私は……」
その瞬間、馬参史の鉤剣が閃き翡蕾の肩に引っかかる。あっと不空と李白は声を上げたが、馬参史はただ翡蕾の体を引き寄せるだけで精一杯のようである。
「つべこべ言わずに、さあ殺せ! 俺たちの事は憎いはずだ。道具がなければこの剣を使え。お前に少しでも俺たちを憐れに思う心があるなら、いっそここで一思いに殺せ!」
「よっしゃ、言ったな? その言葉に二言はないな?」
何が面白いのか、李白はひょいと馬参史のもう一方の鉤剣を奪い取るや、閔敏の首にあてがった。
「お主ら二人とも、今までの事を悔い改めて潔く死ぬと言うのじゃな? ならば結構、このわしが手を下してやろう。仏門の不空にも年若い乙女にもこの役は務めさせられぬからな、わしが代わってやってやろう」
「良いわ、やりなよ!」
閔敏の目に迷いはなかった。ふふん、李白は鉤剣を振り上げた。不空は一瞬口を開いてそれを制止しかけたが、当然の報いだと思い直してやめた。その直後、李白は振り上げた鉤剣をびゅんと振り下ろす。
「駄目よ!」
予想だにしなかった翡蕾の声に、ぴた、と李白の剣が止まる。翡蕾の腕は閔敏の首を庇うように伸べられ、李白の振り降ろした剣刃と一寸も離れていない。不空は思わず息を呑む。一歩間違えれば大変なことになっていた。
やおら、李白はげらげらと笑って剣を放り投げた。
「二妹が止めろと言うなら止めるしかないのぅ。貴様らには飢えて干からびて死ねとの仰せじゃ」
「違うわ、そうじゃない」
翡蕾の言葉に、李白は「うぅん?」とわざとらしい仕草で首を傾げてみせる。
「こやつらは皆に嫌われ追い回され、行く当てもないクズどもじゃぞ。それは二妹自身がよく知っておるはずじゃ。さて、それを生かしてどうすると言うのじゃ?」
「わかっているくせに、意地悪ね」
間髪入れない翡蕾の返答に、李白は一瞬きょとんとして、すぐさままたげらげらと笑い出す。
何がどうなっているのかわからない不空は、翡蕾の「手伝って」との声でようやく馬参史を助け起こすのに手を貸した。
「俺たちを生かして、どうするつもりだ……?」
不安気に問いかける馬参史に、翡蕾はふふんと笑った。
「もちろん、今までの罪滅ぼしをしてもらうわ。――私、ついさっき店を開くと決めたところなのよ。この二人が私の作ったお菓子を美味しいって言ってくれたから、それを売って商売を始めるの。でも、店を始めるには人手が足りないわ。……後はわかるわね?」
馬参史と閔敏は顔を見合わせた。自分たちが何を言われたのか、まるで理解できないようだ。
「つまり、あれか? 俺たちにその店の手伝いをしろと……?」
「ご名答! さあ、そうと決まれば急ぎましょう。まずは私の家に来て、そのげっそりした顔を治してもらわなきゃ」
「ちょ、ちょっと待って」
不空は翡蕾の肩を掴んで向き直らせた。
「こいつらがどんな悪人か知っているだろう? 今まで散々に酷い目にも遭わされたじゃないか。どうしてそんな奴らを助けようとするんだよ?」
声を落とそうとしてはいるが、さすがにこの距離である。馬参史らには筒抜けだ。
だって、と翡蕾は微笑んだ。
「あなただって、人の事は言えないでしょう? 見ず知らずの私を助けてくれたじゃない。それも全力で助けてくれたじゃない。――顔も名前も知らない相手だって助けようと思えば助けるのに、どうして顔も名前も知っている相手を見捨てるの?」
「――」
不空は愕然とした。その言葉の裏にある想いがあまりにも大きく計り知れないものであると感じて、ただ何も言えなくなってしまった。
「……君が男だったなら、それで出家もしていたなら、いずれは仏にもなれただろうに」
仏教の世界で、修行により悟りを開いて仏となる、すなわち成仏できるのは男性のみとされている。故に、翡蕾はどうあっても仏にはなれない。不空はそれを嘆いたのだ。
翡蕾はそれを特に気にした風もなく、ただにっこりと笑った。
「女が仏に成れないなんて、酷い決まりね。別に成りたいとも思ってないけれど」
――その言葉を、今思い出した。
もはや遥か昔の事のように感じる。そして今になって思うのは、あの時翡蕾に感じた大いなる思想の奥深さだ。不空は今、それを胸の中に持っている。まだまだそれを自身の中へ咀嚼するには時間がかかるだろう。むしろ、そのために長安を目指すのだ。自らを導く師の元へ。
不空がその場を立ち去ってしばらくして、反対側の道から二つの人影が現れた。一方は年若い青年、もう一方は年老いた老人だ。青年の方は薄青色の着物に茶色の縁取りをした上着を着て、腰帯の端には翠玉を揺らしている。いかにも真面目そうな学生風である。一方の老人は編み笠を被って杖を突き、黄色の上着からは帯の端がひょろりと二尾のようになびいていた。
二人は路傍の石に目を留めると、そこから不空が通って来た山道を逆に上り始める。やがて大明寺の前までやって来た彼らは、ちょうど街へ戻る人々とすれ違った。
「李白という男が、ここにいると聞いてきたのだが」
二人の問いかけに、人々は李白が身を寄せていた離れ庵の場所を伝えた。礼を言って立ち去る二人の姿を振り返ってみれば、まるで幻であったかのようにその姿は消えていた。
離れ庵に辿り着いた二人は一度顔を見合わせてから、青年がその扉を叩いた。すると、もともと壊れていたのかその扉はばたりと内側に倒れてもうもうと土煙を上げた。
「まーた壊したか。加減を知れといつも言うておろうが」
やれやれ、と肩を竦めて老人が言う。これに対し、青年は唇を曲げて反論した。
「見ていただろう、元々壊れていたんだ。東兄だって見てわかったはずだ」
「老いぼれの目には何も見えん」
「……十七歳は充分若いだろ」
ほっほっほ、老人姿のその人物はまるで何も聞こえなかったかのように庵内へと歩みを進める。やれやれと今度は青年が肩を竦めた。
「言ってくれるぜ、全く。――おおい、李白。ここにいるか? 友が旧交を温めるためにはるばる来てやったぞ」
呼びかけても返事はない。青年はふむと一度顎を掻くと、こほんと咳払いをしてから、
「……あー、めちゃくちゃ格好良くて頭も切れる上にものすごく強い皆の憧れ李白君よ、ここにいるか?」
「おい、どうした。頭に蛆でも湧いたか?」
真顔で老人姿が言うのへ、青年はちぇっと舌打ちを漏らした。その様子に老人姿はふふっと鼻で笑うと、こちらもこほんと咳払いを一つ。
「……美味い酒も、あると思うぞー」
――その時である。何者かが外を駆けた。はっとして飛び出せば、既に遠く紅い影が見える。すぐ近くから飛び出したのにもうあんなに遠くなっている。その素早さは並の軽功ではなかった。
「わしはここじゃ! さあ、辛悟に東巌子よ。わしに続け! 今こそ江湖に蔓延る悪党どもを、我ら新生江湖三侠が討ち取るのじゃ! 美味い酒とやらも忘れるなよ、うわーはっはっはっは!」
言い終わるよりも早く、老人姿がその後を追う。こちらもまた老体とは思えぬ軽功である。一歩出遅れた青年はまたも肩を竦めてため息一つ、こちらも二人を追って駆け出した。
開元六年、百花咲き誇る春の事である。
(了)
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