第八節 梁家の禍

 梁工とはその街で一番の油屋として有名だった。人柄も良く、買い手からも雇用人からも信頼を置かれ、人々から頼りにされていた。

 様子がおかしくなり始めたのは数年前。梁工には妻がおり、料理も上手ければ裁縫も得意、夫の帳簿を手伝えるほど聡明であり、そして何よりも明るく笑顔を絶やさない皆が憧れる女性であった。しかしそれが、ある時を境に全く人前に出なくなったかと思えば、たまに姿を見かけても重く沈んだ様子しか見せなくなっていたのだ。人々は梁工に何があったのか尋ねたが、彼も黙して語らない。彼自身もまた何かに深く悩んだかのようにして上の空になることが多くなっていた。そして彼に親しい者たちが次に心配したのは、彼らの娘、翡蕾についてだった。

 遊び盛りの頃になっても、誰もその姿を見かけない。梁工が言うには病弱であるとのことだったが、どうにもその様子はおかしかった。病弱と言うのならなぜ医者を呼んだり薬屋に通ったりしないのだろうか。

 そうこうしているうちに、妻が死んだ。自殺だった。突然家を飛び出して行方を眩ませたかと思うと、数日後に街外れの池に浮かんでいるのが見つかったのだ。彼女はもはや正常ではなかった。最後の一年ほどは時折奇声を発して暴れまわるなど完全に精神が壊れているようだった。失踪と入水もおそらくその結果だろう。何が彼女をそうさせたのか、それは当時の誰にも分らなかった。

 妻の葬儀が終わって数日後、梁工の体に異変が起きた。初めは瞼の上に、次は喉に。ぶつぶつと浮腫が浮かび上がってきたのだ。初めの内は放っておいても治るだろうと本人も含め皆大事には考えていなかった。しかし次第に浮腫が破れる痛みに耐えきれず、梁工は動けなくなった。そして治るどころかさらに浮腫が全身に広がるのを見て、人々は彼を気遣うよりも、自らがこの奇病に感染しないかと不安に思い始めた。

 翡蕾が人々の前に姿を現したのはその頃だ。梁工の部屋に見知らぬ覆面の少女がいるのを見つけた彼らの一人が誰何すると、彼女は自らを梁工の娘、翡蕾だと名乗った。今までどこにいたのかと尋ねると、ずっと奥の部屋に隠れていたのだと答えた。なぜ隠れていたのかという問いには、彼女は答えなかった。これを信じられなかった者の一人が、彼女の覆面を剥ぎ取った。そしてその下にあったおぞましい火傷痕を見た。誰もがその姿を見て恐れ慄き、これが全てのわざわいの元凶と恐れて梁家から逃げて行った。そして梁父娘は二人きりとなった。

「初めの頃は薬を買い求めに来ていたが、油屋で雇われていた一人が梁家に残っていた金銭を洗いざらい持ち出してしまっていて、それもすぐにできなくなってしまった。それからは家財道具を売り払って生活しているようだが、さすがに薬は金がかかって買うに買えん。それでたまに、薬屋に寄った客から品を奪うようになったんだ」

 薬屋の主人はそこまで語り終えると、茶を一口飲んでふうと息を吐いた。

「あなたも誰も、それを咎めないのですか?」

「もちろん、訴え出れば官憲も動くだろうさ。だが少なくとも俺はしない。俺もあれのことは多少憐れに思うからな。だがだからと言って関わりたくもない」

 主人は引き出しを開け、中から少量の薬草を取り出して袋に詰める。

 不空は今日もまた街へ降り、金剛智に頼まれた薬草を買いに来ていた。そこで先日の強盗被害と、梁翡蕾という娘について知らないかと聞いた。それに対する答えが先ほどの話だった。

「あの人は一体、何という薬草を探しているのですか?」

「さあね、俺も知らん」

 主人は紙片に書かれた薬を全て取り集めたことを確認すると、それぞれの小袋を一つにまとめて不空へ渡した。

「一度、夜中にあの娘に盗みに入られたことがある。だが結局何も取られなかった。話に聞くところでは、最近は「優鉢羅華うはつらけ」とか言うのを探しているらしい。俺はついぞそんな薬草は聞いたことがないがね」

 今回の帰り道は何事もなく、不空は街を出て街道を行き、山道を上って大明寺の裏門へと帰り着いた。

(優鉢羅華、か……)

 道中考えるのは翡蕾のことだ。彼女は不空を「役立たず」だと言った。念仏を唱えて祈ったところで何も起こりはしない。武力もなければ守ることもできない。何と非力な事だろう。その思いがもう何日も不空の中で渦巻いている。自分は本当に何もできないのだろうか? 自分が彼女に対してできることは、何もないのだろうか?

 ――カラン。

 裏門を開いて入ろうとした時、不空はその乾いた金属音を耳にして伏せていた顔を上げた。あれは一体何の音だったか? しばし首を傾げて考え込んだ。そして唐突にその意味に思い当たり、次の瞬間には薬の包みをその場に投げ捨て駆け出していた。

(今のは、蔵書閣に仕掛けていた鳴子の音だ。誰かが無断で蔵書閣に入ったんだ。きっと盗人に違いない!)

 蔵書閣とは裏門の側にあるあの三重塔のことである。特別に貴重な書物が収められていると言うわけでもないが、心悪しき者どもが金に換えようと狙うことは十分にあり得るし、それにやはり経典の類は僧侶にとって何物にも代え難い宝である。しかしながら兄弟子たちは今日も読経に励んでおり、こんな離れた場所のあんな小さな鐘の音に気づいたのは不空だけであろう。掃除用に置いてあった竹箒をさっと取り上げ、息を切らせて三重塔へと辿り着いた。

 出入り口である両開きの扉は大きく開け放されていた。不空はじりじりと距離を詰め、その中を見る。扉を一歩入ったところで、こちらに背を向け腰に両手を当てて立つ見慣れぬ姿を見つけた。

(あの鳴子は音に気づかせることでコソ泥を追い払う目的もあるんだが……まさか本当に引っかかったばかりか、逃げずにいる莫迦がいるだなんて)

「おいお前、何者だ? ここで何をしている?」

 竹箒を槍のように構えて誰何する。それと同時に、その後ろ姿がどこかで見た姿であるように感じて首を傾げる。正確には、あの髪。毛先に向かうほど赤みがかった髪の色、どこかで見たような……。

「いやぁー、これまた随分と集めたものじゃのぅ。どうせ書かれた内容の半分も読み解くことができんくせに。いやはや仕方がないのぅ、わしが一つ残らず貰ってくれようぞ」

「そんなこと、絶対に許さないぞ!」

 不空のその一言でようやく、彼は――老人のような言葉遣いだが、まだ十代の若さだ――心底面倒そうに横目をくれた。その額には包帯が巻かれている。それでようやく、彼が何者であったか思い出した。

「お前は、あの行き倒れの!」

 間違いない。数日前、裏門の前で半裸も同然に行き倒れていたあの少年である。金剛智からはしばらく昏睡が続くと聞かされて不空の部屋にひとまず寝かせておいたのだが、どうやら予想より早く目を覚ましたらしい。何も飲まず食わずだったためかやや頬が痩けているが、中々の美男子だ。切れ長の瞼からは青い瞳を覗かせ、そしてやおらべぇっと舌を出す。

「だぁ~れが行き倒れじゃと? わしは行き倒れてなどおらぬわ。ただ目を覚ましたら服は剥がれ剣も奪われ、あげく女までもが煙の如く消え失せておっただけじゃわい」

 それを行き倒れというのでは無かろうか。……いや、追い剥ぎの被害者か? いずれにせよ胸を張って言うことではなかろう。

 ふと、少年は不空の顔を見てくるりと正面を向ける。じっと顔を眺め回し、

「うん? そういえばお主の面はどこかで見た気がするのぅ?」

「気のせいだ、気のせい! ――それより、お前は何者だ?」

 話を逸らしつつ構えた箒の穂先を少年の鼻先に突きつける。やめろくすぐったい、と言ってやや仰け反る少年。その口元はにいっと笑っている。

「わしが誰かと聞いたのか? なんとまあ、わしを知らぬとは実に愚かな奴よ。……わしの姓は李、名は太白。人はわしを「めちゃくちゃ格好良くてものすごく強い皆の憧れ李白君」と呼ぶ!」

「……へぇ」

 本当に呼ぶ奴がいたのならそいつは頭に蛆が湧いているな、と不空は心中で呟いた。

「それで、その李白君はここで何をしていたんだ? なにやら経典を持ち出すなどと言っていたようだけれど、それらはありがたい仏典の数々、おいそれと余所者に渡すわけにはいかないぞ」

「はっ! ちまっこい小間使い風情が何をケチくさいことを言うんじゃ。宝は皆で共有してこそ価値ある物ぞ。わしが独り占めにする事の何が問題じゃ」

 大問題じゃないか、と不空が言う暇もなく、やおら李白は体を捻って跳躍。不空に向けて両手を突き出し襲い掛かって来た!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る