第七節 獣の正体
殺風景な部屋だった。本来ならばここは来客を迎え入れる場所、最も飾り出す場所であるはずだ。それが中央にぽつねんと小さな円卓に一対の椅子、それ以外にはなんの調度品もなければ壁飾りもありはしない。
不空が遅れて入って来たのを見て、少女はやや意外そうな視線を向けた。
「あら、逃げなかったのね。それとも私が怖くないの?」
冷徹な視線に気圧されそうになるが、不空は毅然とした態度を装って答えた。
「怖いもんか。誰も小姐の事を怖がったりなんかしていないもの」
少女の眉間に縦皺が刻まれる。
「どういうことよ? それとも、もう一度この顔を見たいの? 本当に喰い殺してやっても良いのよ?」
不空はぶるっと体を震わせたが、呼吸を落ちつけて胸を張った。何も怖くなんかないぞ、とその体で示すように。
「ちょっと怪我をしたぐらいで化け物呼ばわりされるんだったら、僕だってさっき頭やら膝やらを殴られて怪我をしたさ。それに、小姐はあの乱暴者たちに滅多打ちにされていたじゃないか。ここに来る途中で会った子も言っていたよ。本当に怖いのは大人の方だ、って。みんな本当は、ああいう悪党どもの方が恐ろしいって知っているんだ」
少女は目をぱちくりさせて不空を見た。信じられないものを見た、とでも言いたげだ。まじまじと不空を見つめた後、ふ~ん、と呟いた。
「その恐ろしい悪党に向かって行ったあんたは、よっぽど義侠に篤いか、よっぽど命知らずなのね」
それは褒めているのか貶しているのか。
「……それにしてもあんた、坊主が女に助けを求めるだなんて随分と恥ずかしい真似ができるわね」
「あ、はい、ごめんなさい。でも僕はただの寺男で、出家の身じゃないから……」
なぜか謝ってしまう不空。それを聞いた少女が何を考えたかはわからないが、ため息を吐く音だけがわずかに聞こえた。
「――
「え?」
「だから、私の名前よ。姓は梁、名は翡蕾。あんたは?」
「えっと、見ての通り僕は漢人じゃなくて……寺では不空って呼ばれてる」
「そう。なら不空、他人のことに無用な関心を抱くのは今後一切やめることね。あんたは自分で言う、私よりも恐ろしい悪党に無謀にも喧嘩を吹っ掛けたんだから。本当なら殺されたっておかしくないわ。わかってる? 関わらなくて言いことに関わって何になるの? 無駄な憂いが増えるだけよ。――ここで待ってて。薬はすぐに持ってくるわ。でも絶対に、何があってもここから動いてはダメよ」
翡蕾と名乗った少女はそう言い残してさらに奥の部屋へと姿を消した。不空は言われた通りにその場で待とうと椅子を引いたが、その時床に点々と落ちた血の跡が目についた。彼女の覆面から滴り落ちたものに違いない。
(あれだけの仕打ちを受けてあんなに気丈でいられるなんて。同じ年頃なのに大したものだなぁ)
ああは言っているが、彼女が受けた暴行は不空の受けたそれよりも酷かったはずだ。自分の身であったならと思うとそれだけでも背中が寒くなる。そして同時に、そんな彼女に対して薬を無心した己が唐突に恥ずかしくなった。床に膝を突くと、服の袖で垂れた血滴を拭き取った。
「ウアァァァ、アガァァァァァ!」
「――!?」
瞬間、空気を震わすような声。間違いない。先ほど塀越しに聞いたあの咆哮だ。そういえば今の今まで忘れていたが、あの塀の向こうはすなわちこの屋敷の敷地内である。つまり、この咆哮の主はこの屋敷内にいるのだ。
(何らかの獣がここにいるのか? 小姐はそれに気付いているのか? いや、あの叙修とか言う
「――小姐が危ない!」
不空は部屋を飛び出し、咆哮の聞こえてきた方へと回廊を駆けた。そして息を呑んだ。床には翡蕾が落としたと思われる血滴が残されている。彼女は咆哮の出所に向かって歩いて行ったのだ。彼女の身に危険が迫っている、それは明らかだ。
ザザッ。何か音がした。不空は慌てて物陰に身を顰める。まさか件の獣か? そっと顔を覗かせて見えたのは、しかしながら予想とは違う光景だった。
(……小姐?)
彼女だ。水瓶から柄杓を使って水を汲み出し、それを桶に注いでいる。ザザッ。先ほど聞いた物音はこれか。
「オォォォォォッ! オォォッ!」
また咆哮。近い。不空はびくりと身を震わせる。しかし、翡蕾が見せた反応は違う。驚くでも怯えるでもなく、むしろ慌てた様子で水を汲んだ桶を抱え上げ、すぐ近くの一室に運び込む。――不空の耳が正しければ、咆哮の主はあの部屋にいる。方角も距離も間違いない。
(まさか、何かの猛獣を飼っているのか? こんな街中の屋敷で? そんな事、許されるはずがない! もしや小姐は本当にとんでもない人間なのでは?)
不空は足音を殺して部屋の入り口に忍び寄る。扉は翡蕾が閉じてしまっていたが、格子の隙間から中を伺い見ることはできた。
寝台が見えた。帳が降ろされてそこにいる姿ははっきり見えないが、誰か人が横たわっているように見えた。翡蕾はその側に桶を置き、じっと寝台に横たわるその誰かを見下ろしていた。
「ウアァァ、グァァ……」
寝台に横たわる誰かが呻く。咆哮だと思っていたそれは、人間の苦痛に満ちた呻き声だったのだ。翡蕾の視線が何かを決意したかのように細くなる。そしてゆっくりと取り出したのは一振りの短剣。キン、と鞘を払う。
「父さん……今、楽にするからね」
「――!?」
不空の驚くまいことか。今の言葉が真実なら、寝台に横たわるのは彼女の父親で、苦しみの声を上げている。それを前にして「楽にする」だと? それは、つまり――。
「や、やめろ! 殺すな!」
気づいた時には声を張り上げ、扉を突き開いて部屋の中へと飛び込んでいた。驚く翡蕾の腰に飛びかかり、その手から短剣を奪い取ろうとする。彼女が咄嗟に抵抗しようとするのを無理やり抑え込もうと壁に押し付ける。
「やっ、やめてっ、何をするの!?」
「殺しちゃいけない! 殺しては絶対にダメだ!」
「何を訳のわかんないこと……言ってん、のっ!」
腹を蹴って突き放される。不空はもんどりうって背中から床に倒れ込みそのまま一回転、入り口横の壁にダンと叩きつけられた。その衝撃で一瞬息が詰まる。うっと声を漏らした次の瞬間、その眼前には翡蕾が短剣の先を突きつけ仁王立ちになっていた。
「あの場から動くなと言ったはずよ。たったそれだけの事すら守れないだなんて最低ね! あんたがもしも出家した僧侶だったなら、きっと戒律なんてすぐに忘れて、酒色に溺れて破滅するわね」
「そう言う君も、親を殺すなんて不孝をするものじゃないぞ。そんなことをすれば罰が下るんだ」
「だからっ! 訳のわからないこと言わないで! 私は父さんを殺したりなんかしない!」
そこまで言って、翡蕾ははっとしたように己が手にした短剣に気づいた。それで不空が何を言わんとしたのか理解したらしい。ニヤリ、血で張りついた覆面越しにそう笑みを浮かべたのがわかる。
「ああ、なるほど。そーゆーことなのね? 莫迦なお子様だわ。自分は聖人君子なのだと思い上がっているのだわ――見てなさい。関わらなくて良いことに首を突っ込んだ結果を身を以て知るが良いわ」
そう言って翡蕾は踵を返すと、さっと寝台の帳を払い除ける。何をしようと言うのか? 不空はふらつきながら立ち上がり、そしてあまりの光景に息を呑んだ。
男だ。一人の男がそこにいる。薄い肌着のみを着た男が横たわっている。しかしながら、わかったのはそれだけだ。年の頃も顔つきもわからない。なぜならばその全身は、目を覆いたくなるような大小さまざまな浮腫に包まれていたからだ。それは瞼や唇までも広がり、人相すらわからなくなっている。そのいくつかは既に破れ、黄白色の膿を流して寝具を汚し悪臭を発していた。
不空は知らず、袖で自身の口鼻を覆っていた。
「これは……この人は……」
「名は
言葉を失った不空に、翡蕾はぶっきらぼうに言って聞かせる。
「もう三年にもなるかしらね。突然この奇病に侵されて、どんな医者や薬師でも治せなかったわ。放っておくと口も鼻も覆ってしまって息ができなくなって、あんな叫び声を上げるのよ。――だから、こうするの」
翡蕾はそっと身を屈めると、短剣の先を唇にできた一際大きな腫れに向ける。ブツ、と皮膚を切り裂くとドロリと中身が溢れ出す。次いで覆面をむしり取ると、血に汚れた口元を袖で拭い、そして――膿の垂れる腫れ物に口を当てた。
「……え? えぇっ!?」
不空は言葉が出ない。あまりにも衝撃的な光景に何も言えなくなっていた。しかしながら翡蕾はそんなことを気にも留めず、ひとしきり膿を吸い出すと足元に桶と並べて置いていた小さな壺にそれを吐き出す。それから桶の水で一度口を漱ぐと、また次の腫れへと短剣を向ける。
口と鼻、それらの膿を吸い出し尽くすと、梁工は先ほどまでとは違って穏やかに呼吸を繰り返すようになった。そうして口を漱いだ翡蕾は、一連の光景を目にして唖然としている不空に向き直る。そしてそっと短剣を差し出した。
「あなたに、これができる?」
「――!」
「できるわけないわよね。汚らしい膿を口で吸い出すだなんて。でも私は父さんを助けるためなら何だってする。付き合いのあった人たち、父さんに恩を受けた人たちもみんな病気を移されると恐れて逃げたけれど、私は違う。――あなたもこれができないのなら、善人ぶるのはやめることね。お坊さんは何も知らないまま、何の役にも立たないお経をあげて偽善者ぶっていれば良いのよ。どうせそれしかできないんだから。まあ尤も、あなたはその僧侶ですらないみたいだけど」
キン。短剣を鞘に納めた翡蕾はくるりと背を向けると、寝台横の卓から何かを拾い上げた。無造作に放られたそれを不空が受け取ると、驚くまいことか、それは強盗に奪われたはずの薬の包みだ。
「そんな、どうしてこれがここに?」
「わからない? ――私があなたを襲った強盗だからよ。私が欲しい薬はなかったし、一応助けられた借りもあるから、そのまま返すわ」
あまりの衝撃の告白に不空は茫然と立ち尽くした。どん、と翡蕾の手の平がそんな不空の胸を押す。
「帰りなさい。あなたの憐れみなんて、なんの役にも立たないのだから」
不空の鼻先で扉が閉まる。格子の隙間から、また翡蕾が短剣を手に寝台へ寄り添う姿が見えた。
不空は何もできなかった。気づけばその場を後にして、屋敷を出て、街を出て、山道を上って大明寺へと帰り着いていた。
それ以外に、何もできなかった。
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