第六節 怪物女

 不空の手から離れた何かが、振り下ろした勢いそのままに叙修の顔面を直撃したのだ。ばっと顔を仰け反らせた叙修はそのまま三歩後方へよろめいた。それに遅れて地面に蹲った梁姑娘の側に、ゴツ、と拳大の岩が落ちる。不空がほぼ無意識のうちに拾い上げ、そして叙修の顔面に至近距離から投擲したのはこれだ。

 プッ。叙修が血の混じった唾を吐くと、その中に二欠片ほど白い物が見えた。忌々しそうに血だらけの口を開くと、叙修の上下の前歯が一本ずつ欠けてしまっていた。

「あぁっ! 兄貴、歯が、歯が!」

 閔敏がさっと顔を青くして 血溜まりの中から歯を拾い上げ、何を思ったか叙修の口に突っ込もうとする。その一方で馬参史は上着を捲ってその下に吊していた二振りの鉤剣に手をかける。それを見た不空は咄嗟に今落とした岩をもう一度拾い上げて投擲の構えを取った。ぎょっとして飛び退く馬参史。その後ろで叙修と閔敏もじりじりと後退する。

「小僧、貴様、自分のやったことがわかっているのか……っ!?」

 口を押さえる指の間から血を撒き散らしながら叙修。不空は答えない、答えられない。自分は今、他人を傷つけているのだ。そしてまたさらに追撃の備えを取っている。自分は僧侶ではないが、大明寺に住まう身の上。果たしてこれは許されることなのだろうか?

(えぇい、ままよ!)

「出て行け! さもないと、またこいつをぶつけるぞ! 痛い目には遭いたくないだろう!?」

 大声で精一杯の威嚇をする。しかしながらその程度の脅しに従うような相手ではない。むしろ莫迦にされたと受け取ったのか、馬参史は憤怒の表情で鉤剣を構えた。ぎょっとして足を引こうとしたところへ詰め寄るように一歩踏み出す。ところが、意外なことにそれを引き留めたのは叙修である。

「待て、馬弟。無駄に騒ぎを起こすんじゃない」

「でも兄貴!」

 叙修の言葉に馬参史は不満気な声を上げたが、不空を見、そして叙修を見、諦めたように鉤剣を下げた。叙修はもう一度血を吐き出して不空に視線を移す。

 ほんの一瞬、不空は叙修が心変わりしたのかと思って安堵した。しかし己に向けられたその視線を目にして、それはあまりにも都合の良過ぎる解釈であったと知った。

「ああそうだ。ここで小僧を一人殺ってしまったところで何の得にもならん。――覚えておけよ、小僧。お前がやったことをじっくり後悔させてやる」

「えぇ? 何で? 何でこいつぶっ殺さないのぉ?」

 閔敏が喚くのを「うるさい」と叱り飛ばして叙修が身を翻す。それに馬参史が続いた。取り残された閔敏は三節棍を握り締めてじっと不空を睨みつけていたが、やおらくすっと笑みを零した。

「その顔、かっわいぃ~。自分の未来がどうなるのか不安で不安で仕方ないって顔してるよぉ? 大丈夫、次に会ったらあたしがしっかり殺したげるからねっ!」

 そんな背筋が凍るような言葉を残して、彼女もまた去って行った。

 不空は振り上げていた右手を降ろし、握り締めていた岩をぼとりと落とす。何はともあれ、奴らは去ったのだ。不空は大きく息を吐いた。そして地面に寝転がったままの少女に向き直ってその肩に手を掛けた。

「奴らは行ってしまったよ。小姐シャオジエ、大丈夫かい?」

 彼女が酷い仕打ちを受けたのを不空は目の前で見ている。だからそうやって声をかけたのだが、返って来たのは意外な反応だった。少女は振り返りざま、不空の手を乱暴に払い除けたのである。

「勝手に触らないでよ! 子供のくせに、何もできないくせにでしゃばって、それで勝手に殴られて。あんたこそ何がしたいのよ?」

 不空の驚くまいことか。こちらは善意で手助けに入ったというのに、礼も言わないどころかこの暴言である。感謝されこそすれ、まさか罵倒されるとは。

 しかしながら不空が最も驚いたのはそこではない。だらだらと彼女の顔面に流れた鼻血にでもない。少女の顔、その左頬から口元までに痛々しく残された火傷痕にである。幼少時に負ったものなのかやや薄れているが、それでも頬の筋肉は引き攣り、唇も若干捻じれている。鼻血も相まって実に痛々しい。それで何とも見ていられずに不空は思わず目を背けた。

 それで少女は始めて自分の覆面が解けていることに気づいたようだ。はっとして顔を手で覆うと、即座に立ち上がって落ちていた覆面を巻き直した。邪魔だった不空は遠慮もなしに突き飛ばされて尻餅を突いた。何をするんだと言いかけて視線を上げると、少女の冷たい視線とぶつかった。早速血で黒ずみ始めた覆面が何とも言えない威圧を発している。

「――出て行きなさい。ここは私の家よ。勝手な立ち入りは許さないわ」

 不空は絶句した。自分は善意から悪者に絡まれる彼女を助けようと飛んで入ったというのに、そんな言いぐさがあって良いものだろうか?

「そんな、僕は――」

「善意だって言いたいんでしょうけれど、ふん、そんなものはあんたが思い上がっただけの偽善だわ。困っている小娘を助けてご満悦かしら? あたしより年下のくせに、一人前の男のつもり? あんたはそれで満足なんでしょ。御託は結構、私は帰れと言ったのよ!」

 門を指差し、そして少女は背を向けた。蹴られた腹が痛むのか若干前屈み気味になりながら正房への石段を登る。その背中に、不空は「待って」と声をかけた。少女はそれで足を止め、肩越しに畜生でも見下ろすかのような視線を向けた。同じ年の頃ではあるが少女の方が年上で背も高い。元々少女の胸元ぐらいまでの身長しかない不空だが、石段による差も相まって不空は少女の腰ほどの位置からぐっと上を見上げる形となった。向けられる視線の威圧感も相当なものである。

「その……力になれなかったのは、謝るよ。下手をしたらもっと酷い目に遭っただけだったかも知れないし。結局役立たずだったのは、認める。その上でちょっと図々しい頼みがあるんだけど……」

 不空が言いよどむと、少女は「何よ」と冷たく浴びせる。

「薬を、貸してもらえないかな? 僕は大明寺の小間使いで、この街には薬を買いに来たのに、結局それは誰かに盗られてしまって無くしたばかりかあの女に打たれた膝がどうにも痛むんだ。薬を買いに来たのに薬が要るようになって帰るだなんて莫迦げてるだろう?」

 ぴく、少女の眉が動いたように見えて、不空はびくりと身を震わせた。気に障ってしまったか?

「……あんた、私が誰だか知らないの? 私の顔を見たのじゃなかったの?」

「え?」

 思わぬ問いかけに頓狂な声を出してしまう。少女の方も思いがけない反応であったらしく、しばらくしげしげと不空の顔を見つめていた。そしてやおら、ふん、と鼻を鳴らすと不空の前まで降りて来てぐいと顔を寄せた。

「この辺で私の事を知らないなんて、この街の人間じゃないのね。坊主頭からして大明寺あたりの見習いかしら? 本当に知らないのなら教えてあげるわ。私はね、この辺じゃ「怪物女」なんて言われて化け物扱いされているのよ。子供たちはみんな、私の姿を見れば泣いて逃げ出すわ――喰われる、ってね!」

 言うなり、顔の覆面を取って一歩踏み出す。醜怪な面相が歯を剥き出して迫れば、不空も思わず「わっ」と叫んですっ転んだ。少女はそれを横目で蔑むように見下ろしてまた覆面をつける。そのままくるりと踵を返して石段を上った。

「それが普通の反応よ。喰われたくなければ、さっさと帰りなさい。それでも薬が欲しいって言うのなら、あげなくもないわ」

 すたすたと少女は石段を上って正房の戸を開けて中に入る。不空は一瞬遅れて立ち上がると、慌ててその後を追った。

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