第五節 女侠が生まれた夜
腰に手を当てた仁王立ちで、はっしとその指先を突きつける。どうだ決まったぞと鼻を鳴らしたが、意外や意外、向けられたのは驚きでもなければ恐怖でもなく、ただきょとんとした呆然顔が二つであった。
(む、口上が足りなかったかしら? ああそうだ、名乗るのを忘れていたわ。それにこんな場面では格好良い二つ名を名乗るのが鉄則よね!)
「聞け、我が名は……えっと、「月下の超絶美少女侠」こと桃蘭香! 天の技で地を平らげ、人民に安寧をもたらす者よ!」
ジャキィィィィン! 勢い良く柳葉刀を引き抜き天に掲げる。どうだと言わんばかりの自慢顔だが、男たちは顔を見合わせるなり、おもむろに傍らの剣を手に取った。
「やれやれ、今日はツキまくってるな。大過の前触れではないのかと逆に不安になるぜ」
「どうだって良いさ。とっとと縛り上げてしまおう。小僧よりは高く売れそうな上玉だ」
何と言うことか! 彼らは蘭香の登場に驚くでもなく、畏れ慄くでもなく、まるで草陰から白兎が飛び出してきたかのような扱いだ。こちらも剣を抜き、ずかずかと距離を詰めようとする。
「暴れるなよ? 傷がつくとどちらにとっても痛手にしかならん」
髭面が無造作に蘭香の手を取ろうと腕を伸ばす。蘭香は咄嗟にその腕に対して掲げていた刀を振り下ろした。引っ込めようとしたその腕をざっくりと斬り裂き鮮血が散った。男たちの驚くまいことか。髭面は確かに刀刃が至るよりも早く腕を引いたはずだったのだ。何らかの武芸が用いられたことは明らかだ。もしも蘭香が踏み込みながらこれを放っていたのなら、髭面の左腕はばっさりと斬り落とされてしまっていただろう。
「くそガキが、やりやがったな!」
髭面が大きく剣を揮う。蘭香は咄嗟にそれを受けようとしたが、その瞬間、今まで修練してきた剣の型が脳裏に浮かび、迷うことなくそれに従った。すなわち、一歩足を引きつつ刀を背後に凪いだのである。すると、髭面の剣尖は蘭香の眼前を
追い払ったはずの恐怖心が再び去来する。追撃が来ぬうちに蘭香はその場を飛び退いた。高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、ゆっくりと呼吸を整える。だが男たちは待ってくれなかった。
(二人同時に来られたら大変だわ。どうにかしないと……。そう言えば、剣法の添え書きにこんな場合の対処法が書いてあったような気がするわ)
蘭香は即座にその文面を思い出し、巨漢の方へと踏み出した。首筋に向かって一閃しながらその横へと移動する。次いで突き。ここで巨漢が繰り出した返しの斬り落としをついと歩法で回避する。
「くっ、畜生……畜生!」
髭面が顔を真っ赤にして激高している。それもそのはず、巨漢と蘭香が一進一退の攻防をしているのに、彼はそれに全く関われないでいるのだ。というのも、蘭香はより背の高い巨漢を中心に、髭面の対角線上の位置を常に確保していたからである。こうなると髭面は巨漢の体に阻まれ蘭香に手出しできない。冷静な巨漢もすぐにこれに気づいたが、蘭香の動きを制限しようにもその動きが素早く、間合いを詰めたり離したりと容易ならぬ。これはマズいぞ、そう思った瞬間、蘭香の柳葉刀が肩をざっくりと斬り裂いた。鮮血が飛び散り、利き腕をやられた巨漢は剣を取り落とす。
やった! 内心喝采をあげた瞬間、蘭香は油断した。ふらついた巨漢の陰から飛び出した髭面への対処に一瞬遅れたのだ。熊のような手でがっしりと肩を掴まれた。
「捕まえたぞ、覚悟しろ!」
骨が軋みそうな握力に顔を歪めつつ、蘭香は咄嗟に身を捩ろうとする。だがびくともしない。しかも右腕を取られたため刀も思うように扱えない。――マズい! 息を呑んだその瞬間、耳元に囁くような声が聞こえた。
(曲池穴を狙いなさい)
霧の奥から聞こえてくるような、しかしはっきりと聞き取れる言葉だ。鈴のように凛とした美しい声だ。だが誰の声なのかなど気にする暇はない。蘭香は言われるままに左の手刀を振り上げ、相手の肘を打った。曲池穴を打たれれば腕は痺れて脱力してしまう。髭面の男はそれで難なく腕を解かれてしまった。しかも腕に走った痺れは尋常でなく、驚きのあまりその場に立ちすくんでしまった。
「いやぁぁぁぁっ! 「悪滅脚・改」ぃぃぃっ!」
適当な技名っぽい何かを叫びながら繰り出した前蹴りが髭面の腹部に命中する。ただの蹴りではない、渾身の内力が込められている。蘭香の倍は体重があろう髭面の体はそのまま真後ろに吹っ飛び、廟の扉を突き破って見えなくなった。
その隙に巨漢は身を屈めて床に落ちた剣を左手で拾い上げようとしている。蘭香は咄嗟に床へ
蘭香は巨漢の目を見た。巨漢もまた蘭香を見た。何を考えるよりも早く手が動いていた。左手で掴み取った剣を心臓めがけ真っ直ぐに突き出し、ぶつりとその胸板に突き立てる。これを手放すとぐいと体を半転、右手の柳葉刀を振り抜いた。手応えはない。間合いを誤ったのか? 慌てて構え直した時、ずるりと巨漢の首は滑り落ちた。それでようやく、自身の勝利を自覚した。キィンと音を立てて真二つになった銀貨が床に転がる。
「やった……やったわ」
しばし呆然として転がった首と胴体とを眺めていた。自分がやったことだと理解しているものの、全く実感が湧いてこない。どうにも他人事のような感覚だった。まさか、本当に勝てるだなんて。
(そうだ、もう一人は――)
振り返れば先ほどまでとは一転して、顔面蒼白となった髭面が廟の入り口からこちらを覗き見ていた。己が外へ蹴り飛ばされていた数秒の間に勝負が着いてしまっていたのだ。当然ながら混乱甚だしく、蘭香を見、その手の刀を見、そして床に転がった兄弟分の首を見てようやく事態を理解した。直後踵を返して一目散に逃げ出て行く。
「あ、待て!」
追いかけようとした蘭香の足を何かが阻んだ。そこにあったのは大金の入った麻袋だ。そういえば、と疑問が浮かぶ。そもそも彼はどうして、こんな物を持って夜中に出歩いていたのだろうか?
少年は依然壁際に転がされたままだ。猿轡で声も発せず、手足も縛られて動きようがない。とりあえず解いてやろうと踏み出した時、その体がびくりと震えた。
(……は?)
その意味を蘭香は理解できなかった。理解できなかったのでもう一歩踏み出すと、今度は更に距離を取るよう
最も納得の行く答えを見出すのに、そう時間はかからなかった。少年は声を出せずにいるが、その目は言葉よりも雄弁にその心を語っていたからだ。
(あたしを怖がってる? なんで? あたしはあんたのためにあの悪党どもと戦ったのよ? 感謝されればこそ、恐れられる理由なんてないはずだわ。そんなの理不尽もいいとこよ! ――そうだわ、私の鮮やかな手並みに畏怖の念を抱いたのね。なんと言ってもあたしは天のご意志で義侠を行えと定められたのだもの。神々しさすら放っていても不思議じゃないわ。畏れ多さに身が竦んだのよ。きっとそうよ、そうに違いない!)
ふふうぅん。鼻を鳴らして得意気に胸を反らしてみせる。そうだ、ここで一つキメの言葉でも残すのがよろしかろう。反らした胸に親指を突き立て、高らかに宣言した。
「これがあたしよ。これが桃蘭香よ! よーく覚えておきなさい!」
言い切った瞬間、胸の奥から熱い何かがこみ上げてきた。歓喜の思いか? いや違う。それが溢れ出てしまうより早く、蘭香は刀も抜き身のまま逃げた髭面を追って廟を飛び出した。
悪党を討ち、幼馴染みには自身の活躍をまざまざと見せつけ、畏敬の視線を送られた。喜んでしかるべきだ。喝采をあげて祝うべきだ。後世に名高き女侠はかくして誕生したのだと記念の碑を建立して永久の歴史に刻むべき瞬間であったはずだ。――それなのに、なぜ。
蘭香は溢れ出るそれを拭おうとはしなかった。そんなことをすれば、遠目に誰かが見ていたならば気取られてしまう可能性がある。それに、彼女自身認めたくなかった。だから視界がどれだけ霞もうとも気にせず、ただ一心に逃げたもう一人の悪党を追った。追いながら、心の中で慟哭した。
(なんで、どうして、涙が止まらないのよ……っ!)
少女はまだ、恋を知らない。
(了)
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