紫陽高弟
第一節 見回りは長兄の役目
彼は姓を
その夜、彼はいつも通り就寝前の見回りをしていた。世間一般には若輩である彼でも、ここ飡霞楼では年長であり、その一切の管理を任されているのだった。
(今夜は霧が深いな。加えて風も強い。また何か紛れ込まなければ良いが……)
山門の閂が下りていることを確認しながら、背中に伸ばした三つ編みの髪を撫でる。しっとりとした露が手についた。飡霞、と言うだけあって、ここでは霧がよく発生する。それに紛れて無断で中に入り込む輩も年に数人、必ずいるのだった。
「……早いところ、修繕するべきかな」
濡れた手を腰帯で拭き取りながら、ポツリ、呟いて山門横の塀を見る。そこには物の見事に崩壊し、ただ瓦礫の山となってしまった塀の残骸がある。いくら山門を閉ざしていようが、これではただ境界線があることを示すのみ、子供だって簡単に出入りできる。やれやれ、これがかつては召されて官位も授かった者の居城かと思えば、弟子の身の上ながらなんだか物悲しい。
門の向かいには霊廟が一つ。しかしその左右と更に奥に、霊廟よりも大きな屋根が続いているため、扁額に「老子廟」と無ければ倉庫か何かと見紛うだろう。元々古びていたものを素人が補強したらしく、もはや雨除けとしても機能すまい。
元林宗は回廊に沿って歩みを進める。途中でいくつか部屋を覗き込んだ。だだっ広い部屋の中にいくつもの机と椅子が並んでいるだけの部屋だ。それがいくつも連なっている。用途を知らぬ人間が見たならば何かの作業部屋と思うだろう。元林宗はその一つ一つに足を踏み入れ、中に誰もいないことを確認する。
ふと、何かを聞いた。部屋の戸を閉めながら耳を澄ます。誰かが騒ぎ立てる声のように聞こえた。
(まだ起きている奴らがいるのか。仕方のない奴らだ)
溜息一つ、元林宗は特に焦るでもなく急ぐでもなく、変わらぬ足取りで声のする方角へと足を向けた。
「てめー、それは俺のだって言ってんだろーが! 返せよボケッ!」
(……?)
たどり着いた先、叫んでいるのは子供の声だった。ああ、やっぱりか。元林宗は足音なくその声が漏れ聞こえる部屋の戸前に立ち、そっと中の様子を伺った。
四人の少年たちがいた。その中で少し背の高い子供が木製の玩具を高々と掲げている。その玩具に手を伸ばそうと、もう一人頭一つ分背丈の低い子供が飛び跳ねていた。残りの二人はそれをにやにやと笑いながら見ている。
「返せっ! 返せったら!」
飛び跳ねる少年の手は、しかし玩具には届かない。持っている方の少年もただぶら下げるだけではなく、右へ左へと動かしているからだ。飛び跳ねる少年の顔は既に怒りで真っ赤になっていた。
「嫌なこった。両膝ついてお願いしなきゃ返してやんねーよ」
「んだと、てめぇぇぇ~。俺を怒らせるとただじゃ済まねーぞ!」
言うなりぐっと身を屈める。何をするのかと思った、それと同時に、玩具を手にする側の少年の顔に一瞬驚きの色が走った。
「お前っ! まさか!?」
ボンッ! 何かが炸裂した。一瞬の事だ。しかし元林宗の目はそれを捉えていた。一度身を屈めた少年の体が、バネのように伸び上がったのだ。振り抜いた右足は的確に玩具を弾き飛ばしていた。何かが破裂したような音は、この時に押し退けられた空気が発した音だったのだ。
バシンッ、バシッ。跳ね上げられた玩具はそのまま天井に激突、その反動のまま床に叩きつけられ粉々に砕け散ってしまった。
「うわぁぁぁ! やっちまった!」
「や、やっちまったのはテメーの方だろうが! やりやがったな、俺に向かって、武技を使ったな!?」
「だから何だってんだ、やるのかよぉぉぉ~!?」
傍観していた二人も立ち上がって腕を上げようとする。構えを取る気だ。一触即発! しかし彼らが構え切るよりも早く、元林宗は部屋の戸が勢いよく開いて中に踏み込んだ。
「お前たち! もう寝る時間だと言うのに、何をしている!」
ぐるりと四人の顔を見回す。皆一様に顔から血の気を引かせ、まるで何事もなかったかのように構えを解いている。無論、元林宗は全て見届けているので無意味なことである。
「元師兄、俺たちは何もしてないよ。小演がやったんだ。俺に向かって、「神龍脚」を使ったんだ!」
蹴りを受けた少年が指先を突きつけて自らの無罪を主張する。蹴った側の少年――小演はびっくりしたように目を見開いた。
「小演、何か言い返すことはあるか?」
「それは、その……」
「嘘は言うな。本当にお前がこれを壊したところを、俺は見ていたぞ。なぜ攻撃した? お前の「神龍脚」がどれほどの威力なのか、お前自身が良くわかっているはずなのに?」
「……はい。大師兄、すみません」
小演は肩も首も落として更に小さくなる。残った三人はしめしめと笑みを漏らしかけたが、元林宗がやおら視線を向けたのでびくりと背筋を正す。
「しかし小演が何もないのに「神龍脚」を使うはずはないな。私は言ったぞ、全て見ていたとな。それに、これは小演が気に入っていた玩具だ。まさか自分から進んでお前たちに渡すことも、ましてや壊すこともしはすまい。さて、何があったのかな?」
「そ、それは……」
玩具を取り上げていた少年が何か言おうとした瞬間、元林宗はさっと腕を伸ばし、その頭をがっしりと掴んだ。
「それはもこれはもない! お前ら、この道観に済む限りは皆寝食を共にする兄弟だ。助け合うべき家族だ! 兄弟同士での喧嘩はもちろん、苛めなんてしようものなら、長兄としてこの私が許さんからな!」
「――!」
頭を離すと、そのままずるずると少年はその場にへたり込んでしまった。他の三人が身を震わせたのは、恐れか、あるいは小窓から吹き込んだ寒風のためか。元林宗はそれを一瞥すると、窓辺に寄ってぱたんと小窓を閉ざす。
「……。それはともかく、早く寝ろ。明朝、師父に叱ってもらうから反省はその時だ」
それだけを言い残して部屋を出る。バタンと扉を閉めて、しかしすぐには立ち去らず耳をそばだてる。最初に聞こえたのは小演の声だった。
「立ちなよ。壊しちまったものはしょーがないし、明日師父に叱られるんなら、今のうちに仲直りしておいた方が良いだろ」
しばらく空白の時間があったが、やがてこれに答える声があった。
「……それも、そうだな」
間もなく部屋の明かりが消えた。少年たちが眠りについたのだ。禍根を残さず、きっと穏やかな心で翌朝を迎える事だろう。
元林宗は満足げに頷くと、しかし表情を強張らせて歩み出した。そのまま一直線に道観の最奥へと向かった。
(やはり、今夜は紛れていたか……!)
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