第二節 ここには何もない

 その侵入者は自らを「飛鼠ひそ」と呼んでいた。山海経に曰く、兎の体に鼠の頭を持ちその背で飛ぶという獣の名だ。実際に彼はその身を暗灰色の衣装に包んでおり、また僅かに前歯が唇の間から覗いていた。なるほどまさしく巨大な鼠のようでもある。

 彼は一切の足音もなく道観の最奥へ至る。その背を山肌の絶壁に預けるようにして、また一つ明かりのある部屋を見つけた。ここへ来るまでにもまたいくつか明かりのある部屋を見つけたが、そのいずれも数人の子供たちが遊んでいるか、本を読んでいるかしているだけだった。ざっと見たところでもこの道観には二、三十人ほどの子供たちがいるようだ。誰もが十歳前後ぐらいで、途中で覗き込んだ部屋で元師兄と呼ばれていた少年が一番の年長者らしい。

 それはともかく、この部屋がある建物は今までの子供部屋とは造りが違う。何か特別なものである事は間違いない。周囲に誰もいない事を確認すると、そっと回廊の屋根から中庭へと飛び降りた。やはり、一つの音もない。完璧な軽功だ。彼自身、これは自らが唯一誇れるものだと自負していた。

 ――だから、その声には驚いた。

「我らが飡霞楼に、貴殿は何用で参られたのか?」

「!?」

 振り向いたその先には、紅衣紫袍を纏った少年――まさしくその元師兄が立っていた。先ほど彼がいた屋根の、その真下にいる。まさか、ずっと後をつけていたとでも? 一切こちらに気づかれることなく?

「窓枠に何やら真新しい傷跡があったので、よもやと思いここで待たせて頂きました。しかし断りもなくここまで参られるからには、真っ当な客人ではありますまい。丁重にお引き取り願いましょう。ましてや盗賊の類ならば、なおさらです」

 言いながらこちらも回廊から飛び降りる。十歩の距離。まさか先の覗き見で気づかれてしまうとは。やろうと思えば逃げられぬ距離ではない。だが、ここで退いてしまっては後日再びとは行かぬ。きっと奴も警戒して、狙いの品はより手に入り難くなってしまうだろう。

(であれば、今! こいつを始末するしかない!)

 両手を腰だめに構えて走り出す。その手には金爪――鈎爪の武具――が装着されている。彼が壁面を蜘蛛の如く登ることができるのもこのためだ。そして今、それは少年の喉元を狙う!

「……言っておきますが、ここには何もない。盗る物など何もない。あるのはただ、師父の慈愛のみです」

 瞬間、少年の姿がかき消えた。どこへ? 疑問に思った瞬間、頭上の気配に気が付いた。

「うおおおおぉぉぉぉぉ!」

 振り仰ぐような余裕はなかった。駆けた勢いのまま前方へと飛び込む。一瞬遅れて、地面を踏み抜く音が背後から聞こえた。信じられないことだった。目にも留まらぬ速さで跳躍し、そしてあのような踏みつけを繰り出してくるとは。

(いや、予想すべきだったんだ。あんなクソガキでも凄まじい技を持っているんだ、長兄と呼ばれるこいつがそれ以上の腕前であることは、予想できて当然の事だった!)

 むしろ、先ほどの光景を見ていなければ今の一撃とて回避できたか怪しいところだ。しかし、もう後にも退けない。今ここで! この少年を仕留めなければ!

「……なかなか、やりますね。私の「落星墜らくせいつい」を回避したのはあなたが初めてかも知れない」

 地面に埋まった右足を引き抜き、少年は特別驚くようでもなくそう言った。挑発のつもりか? だが、何も言わなかったところでこちらへの圧力としては充分だった。

(あの威力……間違いねぇっ! このガキ、俺を殺す事をためらってねぇぞ!)

 少しばかり油断した事を、飛鼠は心中で認めた。相手は少年だから、大した腕ではないだろう。自分を殺すほどの覚悟はないだろう。ましてや、ここは道観。間違っても殺戒など破るまい。――全部、こちらの都合の良い思い込みだった。

「小僧! 貴様、何者だ!?」

 歩み寄ろうとする少年に問い掛ける。答えなど期待していない。ただこちらが立ち上がる時間が欲しいだけだ。しかし、少年は律儀にも立ち止まってくれた。

「確かに、名乗りもせずに失礼しました。私は姓を元、名を林宗と申します。師は当道観の主、紫陽しよう

「……やはり、か。あの大侠客の弟子でもなければ、その歳でそれほどの武芸は納得できねーもん、なっ!」

 立ち上がりざま、右腕を振り上げる。飛び出した土くれが少年の顔面にぶつかった。先ほど地面に突っ込みながら回避した時、同時に拾い上げていたのだ。

「でもやっぱりな~っ! 実戦経験はまだまだ不足っ、て感じだぜ! そこがテメェの弱点ってやつだ!」

 視界を奪われた元林宗は、声を頼りに蹴りを放った。が、高すぎる。いや、厳密には腰の高さ、それは決して高すぎるものではない。だが相手は更にその下をくぐり抜けたのだ。疾風の速さで、真下を駆け抜けたのだ。飛鼠の金爪が閃き、左足の太腿を切り裂いた。

「むっ!?」

「ガキはおねんねの時間だ!」

 よろめいた背中へ手刀を送る。金爪の指先を揃え、心臓を抉る軌道だ。腕の立つ武芸者ならばたとえ視界を奪われようとも背後に回られるような失態は犯すまい。

 メキッ――初め、それが何の音か飛鼠にはわからなかった。次いで視界が横にぶれたのを感じ、ようやく側頭部を蹴られたのだと知った。両足から地面の感触が消える。

「う、うぐおおぉぉぉっ!?」

 凄まじい脚力が頭蓋を揺らす。何と言うことだ、元林宗は振り返りこそしていないが、その右足は背面を横薙ぎに蹴りつけていたのだ。蹴り飛ばされた飛鼠はそのまま回廊の縁に激突して欄干をへし折った。

「そうですね、私は確かに経験不足かも知れません。しかし、あなたを倒すのは難しくなさそうだ」

「……っ……!」

 全身を撫で回して状況を確認する。蹴られた顎は無事だ。瞬間、自分から飛び上がったのが幸いしたようだ。欄干に打ち付けた右腕も鈍痛が酷いが折れているわけではない。欄干の方に経年疲労があり脆くなっていたのだろう。

(こ、この俺様が……こんな小僧にやられてたまるかっ!)

 元林宗は五歩の距離を空けて歩みを止める。構えを取るでもなく立ち尽くしているように見えるが、右足だけが僅かに前に出ている。迂闊に近寄れば酷い目に遭うだろう。

「大人しく山を降りていただければ、私も深追いは致しません。そのまま背を向けて立ち去っては頂けませんか?」

「頂けねぇなぁ、それは」

 伸べた手の先、金爪の先が元林宗めがけて飛び出した。袖箭のようなバネ仕掛けの暗器だ。右手と左手、それぞれ頭部と足下を狙っている。しかし、元林宗はそれをついと横に移動することで回避する。

「そうですか、それではあなたのお命を頂戴するとしましょう」

「やってみろよ。できるならな」

 元林宗の眉がぴくりと動く。相手は唯一身につけた金爪を暗器にしたことで一切の武装を失ったはずだ。それなのになぜ、こんな事が言えるのか?

「だから言ったろうがよぉ~。てめーは実戦不足なんだってなぁ!」

 指先が奇怪に動く。はっとした時にはもう襲い。首と脚に嫌な気配を感じたときには、既にそれは絡みついていた。金爪の先は極細の鋼線で繋がっていたのだ。ぐいと引き寄せると足を取られそうになる。なんとか転倒させられぬよう踏ん張ったが、その代わり鋼線は深く元林宗の皮膚に食い込んだ。

「下手に動くんじゃねーぞ。俺がもうちょっと引っ張ればてめーなんぞ簡単に殺せるんだからな。だがせっかくここまでやったんだ。せめて「天問牌てんもんはい」の在処ぐらいは喋ってもらうか」

「何……だって?」

 首と鋼線の間に何とか指を差し挟んだことで何とか声を出すことはできる。が、その指を切断されるのは時間の問題だろう。

「だからぁ~、「天問牌」だってば。てめーの師匠、胡紫陽はかつて江湖を股にかけた大侠客。それが引退直前に手に入れたとか言うこの世の至宝よ。弟子の貴様が知らねぇはずはあるまい」

 じわじわと鋼線の締め付けが強くなる。早く話さねば更に締め付けるとでも言うつもりか。

「まあ、別に話したくないのならそれでも良いさ。朝までじっくり調べさせてもらうだけだからな。――で、どうよ? 話す気にはなったか?」

「……っ!」

「おーそうか。じゃあ死ね」

 じりじりと締め上げていた鋼線を一転、ぐいと強く引き寄せる。さすがに細切れとはいかぬまでも、それだけで首筋の血管を切り裂く程度の事はできる。

 しかし、ここで元林宗は思わぬ行動に出た。絡め取られた両足で、一切の助走無くその場から飛び上がったのだ。元林宗自身の推力と引き寄せる力が合わさり、眼前にまで接近する。まさかあの状態から蹴り技を狙うとは!

(いや、そんなことをして俺を吹っ飛ばせば、こいつ自身の脚力がその首を斬り飛ばすだけだ。死なば諸共のつもりか、いやそんなはずはない!)

 きらり、視界で光る線。元林宗が急接近したことで緩んだ鋼線が、ふわりと宙を舞っていた。それを見た瞬間、相手が何を考えているのかを悟る。

「てめぇ、この野郎ぉぉぉぉぉぉ!」

 鋼線は今にも首へ巻き付こうとしていた。緩んだ分の鋼線を足で巧みに操り、こちらの首へ巻き付ける算段だったのだ。両者が絡み合えばお互い自由には動けぬ。だが、その上で仲間を呼ばれでもすれば厄介だ。第一、目の前には元林宗の師父、胡紫陽が住まうと思しき棟もある。

「自らの技に沈め、盗人め」

「くそガキが、粋がるんじゃあねー!!」

 ぱしんっ! 両手の金爪から鋼線が外れた。一端が消失したことで首に巻き付こうとしていた鋼線はさらりと肌を撫でるのみとなる。これで武装は失ってしまったが、こちらが捕らわれることは回避できた。むしろ、状況を見直せばむしろ有利である。

「これで俺は自由! 貴様はまだ身動き取れまい。ましてや蹴り技なんてその状態じゃ不可能だよなぁ~? 大人しく首をかっ斬られれば苦しまなかったものを、わざわざご苦労なことだぜ!」

 着地したばかりの元林宗めがけ、握り締めた拳を繰り出す。爪先を失したとはいえ、鋼鉄の重りがあることには変わりない。岩をも砕く寸拳が元林宗のわき腹を狙う!

 瞬間、元林宗の体がぐるりと回転した。腕も足も鋼線に巻き取られたまま、体幹を軸に半回転。迫る拳をするりと巻き取るように受け流し、右足をほんの少しだけ踏み出した。

(――げっ!?)

 体が触れたときには手遅れだった。凄まじい内力が元林宗の体側面から迸る。まるで決壊した堤防の水が濁流となり押し寄せるかのような衝撃。めきめきと自身の体から嫌な音が聞こえてくる。寸勁だ。

(や、やめときゃよかった……っ! 胡紫陽の弟子なんかに、真っ向勝負なんて仕掛けるんじゃなかったぜ……)

 口の端から一筋の血を流しつつ、両足が地面から離れる。寸勁を撃たれた瞬間、こちらから背後へ飛び退いたのが功を奏した。受けた内傷は軽微、加えて加速がついている。

「やべー勝負は無理に決着をつける事もねぇよな~。それに、俺はもうてめぇには勝っているんだからよ……」

 回廊の屋根に達すると間髪入れず更に跳躍。彼はひっそりと音もなく、夜闇の中へと消えて行った。

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