第三節 溺愛する師父
「――師父、弟子元林宗がお目通り致します」
そう言って元林宗は師父の居室に踏み入った。
彼は物心ついた時から胡紫陽の弟子である。それこそ実の親のように慕い、付き従ってきた。それ故に道観に住まう全ての少年少女が兄弟弟子になろうとも、師父の居室に立ち入ることを許された「入室弟子」は長兄たる元林宗ただ一人であった。
胡紫陽の居室はかつて江湖に名を馳せた一大侠客にしては極めて質素である。正面には天幕を降ろした寝台。その左に二人掛けの卓と椅子、右には戸棚が一つあるのみだ。
しかし、肝心の師父の姿が見当たらない。さてどうしたのだろうかと元林宗は首を傾げた。
「師父? いらっしゃらないのですか?」
声をかけてみるが返事はない。卓上に取り残された香炉が一つ、ゆらりと香の煙をくゆらせた。
その時である。背後に気配を感じた。
「いやっほぉぉぉぉ! 林児ーっ!」
振り向く間もなく、背中に組み付かれた。細く白い二つの腕が肩越しに元林宗の首に巻き付き、きめ細やかな肌が頬に押しつけられる。ふわり、独特な香りが鼻をくすぐった。
「林児が私の部屋に足を運んでくれるとは珍しいじゃないか? どうした、とうとう私を手籠めにしようとでも思ったか?」
「……師父、冗談が過ぎますよ。なぜ毎回毎回背後から飛びかからねばならないのですか」
ぐりぐりと頬摺りされながら、元林宗は努めて静かに窘めた。えぇー、と不満げな声が背後から。
「良いじゃないか、別に。毎回毎回やっていて、嫌がる風でもなく対処しようとすることもないってことは、林児だって満更じゃないんだろう?」
「……」
師父が楽しそうだからわざと組み付かれてやっている、とは言いづらい元林宗であった。
ふふ、と笑って腕を解き、背後からの強襲者は元林宗の正面に回った。薄桃色の唇、つんと長く伸びた睫毛。上背のある割には細く雪の様に白い肢体。精々二十代後半程度にしか見えない容貌だが、その長髪は絹さながらに真っ白である。この女性こそが、元林宗の師父であり、かつて十代の
「そんなことより、師父。先ほど侵入者がありました。こちらでは何か変わったことなどありませんでしたか?」
「そんなことって言わないでよぉ……。変わったこと? もちろんあるさ。林児が私の部屋まで来てくれた」
けろりと答える胡紫陽。ついと唇を突き出して目を細め、その顔にはやや悪戯っぽい笑みがある。見た目も相まってまるで年頃の乙女のようであるが、これで実年齢は三十代の中盤に差し掛かっているのだから驚きだ。つんと元林宗の頬をつつき、そのまま手を取って椅子へ座らせた。元林宗が誘われるまま腰を降ろすと、もう一方の椅子に腰掛けくすりと笑う。
「そんなに怖い顔をしないでおくれ。それで、今度はどんな相手だった? ほらほら、早く聞かせておくれ」
両肘を卓上に、その顔を組んだ手の上に乗せて。まるで恋人と語り合うかのような居住まいで胡紫陽は話を待った。その目は爛々と輝いている。
元林宗がこんな夜更けに師父の居室を訪れるとなれば、それは侵入者があった時だけだ。そこで異常がないことを確認すると、乞われるままその時の相手について語るのが常であった。今回も元林宗は淡々と相手の特長、交わした一手一足の技を語って聞かせる。胡紫陽はいつだってそれを楽しげに聞き、彼が上手い手を繰り出したとあれば喝采して喜ぶのである。師父と弟子とは親子も同然、つまりはそう言うことなのだった。
今夜も話を聞き終えた胡紫陽は喜色満面、くねくねと上体を揺らす。
「いやぁ、林児は実に頼りになるなぁ。この私に群がる害虫どもを悉く追い払ってくれるだなんて。さすがは私の弟子! 格好良い! イケてる! あぁ、もう――抱いてくれ!」
「そんな、ご勘弁を」
卓越しに腰を浮かせて腕を回そうとしてきた師父の額をほとんど無造作に掴み止める元林宗。ちぇー、と胡紫陽は頬を膨らませてまた座り直す。まるで子供だ。
「勘弁だとは酷いな。別に良いだろうが、減るものでもなし」
出家の身でありながらまだ言いますか。元林宗は心中で呟いた。とにかく、いつまでも師父の冗談に付き合っている場合でもない。
「冗談はそれぐらいにして、師父はこの者について何か心当たりなどありますか?」
「冗談って……」
胡紫陽はいかにも心が傷ついた、と言わんばかりの表情を浮かべるが、どうせいつものことである。元林宗はこれをガン無視した。
あんまり酷いと泣くぞ? などと呟きながら、胡紫陽は顎に手を当てる。
「……まあ、それはおそらく「飛鼠」だろうな。まだ江湖にいたとは驚きだが」
「有名な使い手なのですか」
まっさかぁー、と胡紫陽は鼻で笑った。
「飛鼠自身の力量など語るに足らん。それの師、「
視線を初めて元林宗から逸らし、虚空を見つめる。遙か昔を思い出すかのように。しばらく無言であったが、すぐにやれやれと頭を振る。
「あの人自身、それを気に病んでいた。それでとうとう、やってはいけないことをやってしまった。他派の武技を盗み、武林における不文律を犯してしまったんだ。大英雄は一転して爪弾き者にされ、江湖から姿を消した。その後の奴の行方は私も知らない。けれどもあれの弟子が一人、師門を離れてからも度々盗みを働いていると聞いた。――それが飛鼠だ。あれから十余年経つが、未だに健在だったとはね」
そこで胡紫陽は、ふふん、と自慢げに鼻を鳴らした。
「だが所詮は盗んだ武芸、十年修行したところで私の林児に適う相手ではなかったようだな?」
そして掛け値なしの笑顔を。今まで黙って話を聞いていた元林宗も、それにつられて微笑んだ。――彼としても、師父のこの笑顔を見ることが出来るならいかなる侵入者だろうが打ち負かしてやろうという気になるのだ。
「奴が使ったという金爪の技も、奴自身の技ではなかろう。どこか他派のものに違いない。もしかすると林児の技も盗まれたかも知れないな?」
「師父の技は一朝一夕で身につくものではありません。ましてや一目見ただけでは」
「林児、あなた、それはどちらの意味?」
ふふ、と笑い声を漏らす胡紫陽。今の一言は一見彼女を立てたようであり、実際言った本人もそのつもりなのだろうが、言外に己の技が生半可な者に真似できるものではないと言い切ったようなものだった。
「しかし、それならば奴は何を狙って来たのだろうね? まさかわざわざ林児に蹴り返される為ではないだろうに」
「それについてですが、奴は「天問牌」なる物を探しているようでした。これについては、何か心当たりはございますか?」
「――何だと?」
一瞬の間があった。その瞬間、元林宗は今までに見たことのない師父の表情を見た。いつもは慈母のように接してくれるその顔に、今確かに、冷徹な色が宿ったのである。それはまたすぐに消え去ったが、先ほどまでの微笑みもまた残ってはいなかった。
「天問牌と、奴は言ったのか?」
「はい、確かにそう言いました。私にその在処を言えと。いったい何の事やら……」
淡々と元林宗は答えながら、内心ではその「天問牌」とやらが気になり始めていた。飛鼠が口にしたときは何の戯れ言をと気にもしていなかったが、さすがにこの師父の反応は気にかかる。
「……天問牌、天問牌か」
「やはり、何か思い当たる節が?」
ん、と言って胡紫陽は小さく頷く。元林宗はそれ以上追求しなかった。正直なところ、失礼を承知で言うならば、師父がこれほどまでに考え込んでいる様はかつて一度も見たことがない。それ故にどう応じれば良いのか判別つけかねたのである。
「……林児、お前今、とても失礼なことを考えなかったか?」
「はい、確かに」
元林宗は物心ついたときから胡紫陽の弟子、道士である。よって嘘は吐かない。
「――お前、いつか女を泣かせるな」
「はい?」
「いや、何でもない。――それより、林児ももう自室に戻って休め。夜もこんなに深くなってしまった」
席を立ち、部屋の扉に手を伸ばす胡紫陽。いつもは夜が明けそうになるまで引き留めようとする彼女が、今夜は早々に元林宗を帰そうとする。やはりこれは何かがおかしかった。元林宗は思い切って言ってみた。
「師父、何か困ったことがあるのでしたら遠慮なくお申し付けください。私は師父のためならば何だって力になります」
「その言葉は心身共に震えて濡れそぼるほど嬉しいけどね、林児。本当に何もないんだよ――いや、厳密には気にして欲しくないんだ」
そこまで言われたならこれ以上の詮索は野暮と言うものだろう。元林宗もそれ以上の深追いはせず、誘われるまま退室しようとまた椅子から立ち上がった。
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