第二節 偽りの日々

 花畑が見える庭で範琳は待っていた。持ち運び用の長椅子に腰掛け、空いた隣へ手招く。羅珠は招かれるままに範琳の側へ近寄ったが、椅子には腰掛けずにまず範琳の正面に立った。何も言われる前からその場でくるりと一回転。うんと頷いた範琳の両手が羅珠の肩を抱く。

「うん、うん。やっぱりあたしの見立てた通りだ。とっても良くお似合いだよ」

「ありがとうございます。……お母様」

 後の言葉は絞り出すのにやや時間がかかった。しかし範琳は気にした様子もなく、むしろにこりと笑って再度隣へ招く。今度は羅珠も誘われるまま腰を降ろす。新しい衣装を与えられた日はまず範琳の正面に立って全身を見せる。範琳がそれに納得したらそこでようやく隣へ座るのだ。それが絶対の、暗黙の掟だ。

 腰掛けるや否や、範琳の手がすっと伸びて羅珠の頬に触れる。羅珠が視線を向ければ、範琳の表情は実にうっとりとしてこちらを見つめている。

「可愛い子だね。いつ何度見てもお前は上出来だよ」

 羅珠はじっと範琳の瞳を見つめ返したまま一言も漏らさない。愛玩人形になったかのように微動だにせず、範琳の愛撫するままに任せている。もしもここで範琳の手を振り払ったり、勝手に口を開いたりすれば、激しい責め苦が待ち受けている。だから体が拒絶する。動きたくても動けず、口を開きたくても開けぬ。そのように羅珠の体は覚え込まされていた。

(この手が私のお父様とお母様を殺したのに……ッ!)

 範琳の気が済むまで羅珠はじっと動かずに撫でられ続けた。心を忘却し時を忘れる術は当たり前のように身に着けてしまった。今日の服はまた一段と似合っていたのだろう、いつもよりも愛撫の時間は長かったように感じる。正確なところは羅珠にもわからない。

「さあ、今日もお話を聞かせてあげようね」

 ひとしきり満足したらしい範琳は、今度は書を一巻取り出して開いた。やにわに羅珠の目が輝いた。その書物の中身を羅珠は知っている。中身は寓話集だ。元は仏法書なのか何なのかよく知らないが、どの話も寓意に満ちていて興味深いものばかりだった。

 羅珠は範琳の言葉に「はい」としか返すことを許されていないが、元より否やを唱えるつもりもなかった。範琳はまた新たに三篇の物語を読み上げた。抑揚が利いていてとても聞きやすく、また一遍ごとに解説を挟んでくれるのでわかり易いことこの上ない。

「お話はもう飽きたねぇ。さあ、おいで。今度は楽器を教えてあげよう」

 羅珠としてはまだ聞き足りない思いもあるが、範琳は次いで足元に置いていた包みを開いて中身を羅珠の膝に乗せた。七弦琴だ。音楽を奏でることは昔から羅珠の好むところであった。

 範琳の指示に従って弦を爪弾く。羅珠はもういくつもの楽曲を奏でることができるようになったばかりか、即興での演奏もこなすようになっていた。

「お前は本当に何をやらせても上手くやるね。あたしも鼻が高いよ」

 その日もまた一日、範琳の望むままに芸事に励んだ。琴笛舞踊に絵画詩歌、日々その題目は変わったが、いずれも羅珠はそつなくこなし、範琳を喜ばせた。この日も日が暮れる前に羅珠は部屋へ返されたが、羅珠はしばらくの間その日学んだ事柄を思い浮かべて反芻していた。卓上に琴を思い描いて想像の中の弦を爪弾く。音はなくとも心地よさが心に響いた。会心の出来だ。これならばきっと、あの人はまた私を褒めてくれるだろう――。

「――ッ!」

 突如我に返った羅珠は弾かれたように椅子を蹴倒し飛び退いた。自分は今、何を考えた? 何を夢想した? 誰に褒めてもらおうと思った? 誰を喜ばせようと思ったのだ?

「嫌だ……もう、嫌だ」

 知らぬ間に涙が流れる。羅珠はきつく己の体を抱き締め、震えた。

 憎らしかった。父と母とを殺したあの女が。

 惨めであった。その仇敵に育てられていることが。

 浅ましかった。その境遇に甘んじ懐柔されていることが。

 恐ろしかった。父母の仇を忘れ去ろうとしている自分自身が。

 あの範琳が父と母とを殺した現場を、羅珠はその目で見た。忘れたことなど一度もない。毎晩毎晩夢に見る。忘れられるわけがない。忘れるはずがない。この恨みを晴らさなければ、死後どうして両親に顔向けができよう?

 そうだ、親の仇を子が討つのは当然のこと、果たすべき孝行だ。それなのに! 羅珠はその仇に捕らえられたばかりか、何一つ不自由のない暮らしを与えられている。逃げ出すことこそできないが、衣服も食事も与えられ、教養も芸事も授けてくれる。

 ほだされてなるものか。屈してなるものか。いつもいつもその確たる決意を胸に生きていた。生きていた――はずだった。

 それがどうだ。今日は何度、この暮らしが続けばと願った? そんな愚かしい考えを抱いた? いやそもそも、それが唾棄すべき穢れたものであると気づいたのは何度あった? もはやその感覚も麻痺してしまっているのではないか。

 壊れてしまう。羅珠は震えた。このままでは、自分は壊れてしまうだろう。父母の仇を討つのだという使命と、平穏な日々を送りたいと望む心と。その二つにこの身は引き裂かれてしまう。バラバラに千切れてしまう。きっとそうなる日は遠くない。明日か、明後日か。十日後か、一年後か。もしかすると、今この瞬間か。

「誰か助けて……私を殺して……」

 どれだけ望んでも、その願いは叶わない。

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