第三節 豹変

 指が重い。まるで重りでも括り付けられたかのように動きが鈍い。押さえが一瞬遅れた。しまったと思った瞬間にはもう遅い。出し損じた音がすべてを壊した。弁明する間もなく頬に痛み。殴られたのだと認識したのは地面に転がってからだ。カツンと目の前に横笛が転がる。

「何度も間違えるんじゃあないよ! 今日はこれで何度目だい?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 地面にぬかづいて許しを乞う。しかしそんな羅珠の腹を範琳は容赦なく蹴り飛ばした。ズキンと体内に痛みが走り、羅珠は声もなく悶えた。

 今日は朝から調子が悪かった。正確には数日前から少しずつ悪くなっている。これまで感じたことのない体のだるさに加え、頭も重い。食事もまともに喉を通らなくなってきた。そしてとうとう、芸事にも影響が出始めた。

 しばらく前から範琳の羅珠に対する接し方は大きく変わっていた。今までは目に入れても痛くないほどの可愛がり様だったのに、今ではほんの少しの失敗を咎めるどころか、理不尽なことで怒鳴られることが増えた。書物の読み聞かせはいつの間にかしなくなっていたし、新しい服も送らなくなった。まるでここへ連れて来られたばかりの時のようであるが、今は従順に接してもこの有様なのでむしろ状況はさらに悪い。何が範琳の気に入らないのかわからないのも困りものだった。

「いつまで這いつくばっているんだい。さっさと起きな! 練習を続けるんだよ」

 痛む下腹を押さえながら立ち上がる。と、範琳は突如血相を変えて飛び掛かってきた。髪の毛を無造作に掴まれるや渾身の力で卓に叩きつけられる。

「あたしの前で気安く立ち上がるんじゃないよッ! お前はあたしの子なんだよ。子が親を見下ろすんじゃない!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 頭が痛い。脳髄が揺れる。今にも吐き出しそうになるのを懸命に堪え、羅珠は笛を拾ってまた初めから演奏を始めた。しかし羅珠はいよいよ限界に近づいていた。元の不調に加え、今しがた受けた暴力により頭は揺れ吐き気が募る。先ほど運指を間違えた部分を通過するや、気が緩んだ瞬間に次の音を間違えた。

「この出来損ないめ! 死にたいのかい!?」

 激昂した範琳に胸倉を掴まれ、叫ぶ間もなく放り出された。バリッ! 着古された服が破けた。新しい服をもらえなくなってからは古い服を着回すしかなく、羅珠は伸びた身長に合わない服を無理やり身に着けていた。しかしこれでまた一着失った。

 投げ出された瞬間に頭が揺れ、羅珠は我慢しきれずに嘔吐した。幸か不幸か、食が細くなっていたため出てきたのは黄色い胃液だけだ。何度か咳き込んで出るものをすべて出す。そしてようやく、範琳の追撃がないことを訝った。ただ投げ飛ばすだけで、殴ることも罵声を浴びせることもしないとはどうしたのだろう?

「……お母様?」

 首を捻じって振り返ってみれば、そこにいたのは顔面に驚愕とも絶望ともつかぬ表情を貼り付けた範琳だ。握り締めた布切れがゆらゆらと揺れる。

「お前、それは……それは一体何だい!?」

 羅珠は初め範琳が何を言っているのか理解できなかった。その視線の先を辿ってようやく、服が破れて顕わになった胸元を凝視しているのだと知った。

 羅珠の胸にはきつく包帯を巻きつけてあった。なぜだかは知らないが、数か月前から風児がそうするよう命令するようになったのだ。膨らみ始めた乳房を締め付けるのは苦痛だったが、そうしなければ風児に何をされるかわからない。しかし範琳の反応は妙だ。これは範琳がそうするように風児を介して命令したのではなかったのか。

 範琳の腕が伸び、胸を締め付けていた包帯を一息に引き千切る。悲鳴を上げる羅珠。これは一体どうしたことだろう。何が起こっているのかわからない。咄嗟に胸を押さえようとしたところ、範琳の手が先にその乳房を掴んだ。まるで鷹か何かの猛禽類のような力だ。

「これは一体何だい!? いつからあたしに隠していたんだい!?」

「痛い! 痛い! お母様、やめて!」

「お前はずっとあたしの子供でいればいいんだ! どこにも行かせやしないんだ! あたしの雪華せつかはこんな親不孝はしないよッ!」

 まただ――激痛と罵声とで視界が揺らぎ始めた羅珠は、狂ったように許しを乞うて泣き叫びながら思った。また、私のことを「雪華」と呼んだ。

 これまでにも度々そういうことがあった。範琳は羅珠のことを「お前」だとか「あたしの娘」とばかり呼び、決して名前で呼ばなかった。しかしふとした瞬間に「雪華」と呼ぶことがあったのだ。ここしばらくそんなことはなかったが、以前に優しく接してくれていた時にはよくあったことだ。羅珠は幾度となくその「雪華」というのが何者なのか気になったが、決して問うことはなかった。一番初めにそう呼ばれたとき、思わずそれは誰なのかと訊いてしまった。すると範琳はたちまち豹変し、羅珠を気絶するまでったのだ。以来二度と訊けていない。

(当り前でしょ。私は羅珠、あなたの娘なんかじゃないんだから……)

 言いたいことを呑み込む癖は望まずとも身に着けてしまっていた。羅珠はもはや何も抵抗することなく意識を失った。

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