第二十一節 義兄弟の再会と反目
閔敏は一度三弟の全身を上から下まで見て、ふと緑袍に刺繍された風雲模様を凝視した。そしてはっと思い出したように目を見開くと、指を差して叫んだ。
「その紋、まさか叙修兄貴かい!? うわ~っ! 会いたかったよ兄貴ぃ~!」
言うなり三弟の腰に抱き付き、椅子から諸共に転げ落ちた。その拍子に帽子が吹き飛び、現れた三弟の顔は確かにあの叙修であった。
「なんだぁ、三兄? そりゃあ昔の女だったのかぁ?」
もごもごと揚げパンを口に押し込みながら呑気に閻厖が問う。違う、と短く返しつつ立ち上がった叙修はなおも腰に抱き付く閔敏の額を押し返してこれを引き剥がした。
「昔の女じゃなかったら、何だと言うんだい?」
「ただの妹分だ。二姐も変にからかわないでくれ。……閔妹、お前、こんなところで一体何をしているんだ?」
問われた閔敏は再会の嬉し涙で顔をぐしゃぐしゃにして、叙修の胸元を同様にぐしゃぐしゃにする真っ最中だ。顔を上げると、ずずーっ、と鼻を啜り上げ、
「何って、仕事だよ? あっ、そうだ。馬兄さんもいるんだよ!」
「何、奴もいるのか? それに、仕事だと?」
その問いには直接答えず、閔敏は大声を張り上げて奥の厨房に呼びかける。
「馬兄さん、来てよ。叙修兄貴が帰って来た!」
直後、がしゃーんと凄まじい音を鳴らした後に一人の男が厨房から飛び出してきた。藍色の腰巻と頭巾をかぶり、手は今まで捏ねていたのか菓子の生地がべっとりとくっついている。――しかしその顔は確かに馬参史であった。
「兄貴! 一体どこに行ってたんだよ!」
するりと卓の間をすり抜けて、馬参史は有無を言わさず叙修に抱き付いた。べしゃっ、緑袍が今度は菓子生地でぐしゃぐしゃになる。
「おやおや、感動の再会ってところかい? お前は随分と人気者だったようだねぇ」
ニヤニヤと笑いながら言う二姐だが、その視線には緊張が走っている。馬参史もまた、何やら武芸の歩法を用いて近づいたからだ。それに加え、店にいる客の様子が気になった。
「叙修……? あの叙修が帰って来たのか?」
「じゃあ一緒にいるあいつらは何かしら?」
「わからねぇ……だが武器を持っている。あんまり見るな、関わり合いになったら面倒だ」
「嫌な予感がするな。面倒は御免だ、俺はもう帰るぜ」
そんなやり取りが行われているとは全く気づいていない様子の馬参史と閔敏は、ようやく叙修から離れたところだ。すっかりぐしゃぐしゃになってしまった緑袍を見下ろして、叙修はやや表情が引き攣っている。
「兄貴ぃ~。あたいら、兄貴がいなくなってからほんとうに大変だったんだよぉ?」
「そうだぜ。くそ坊主に負かされたことは確かに悔しかったけどさ、何も俺たちを置いて行方を晦まさなくったって良いじゃないか」
「お前ら、その話は――」
するな、と言い切る前に閔敏に割り込まれる。
「ね、ね。この二年間、一体どこに行ってたのぉ? こっちの人たちは? 新しい子分?」
瞬間、叙修の表情が強張った。ちらと視線を向けた先、二姐がハッと鼻で笑う。
「あたしらが三弟の子分だって? 莫迦を言うんじゃないよ小汚い小娘が。この璧に彫られた虎が見えるかい? 「白銀白虎」の名前はお前だって知っているだろう?」
閔敏と馬参史は顔を見合わせた。こくりと頷き、顔をまた二姐に戻し、知らないと言い切る。
ビクン、二姐のこめかみに血管が浮き出る。ハハハ、と叙修は大笑いしながら二姐と馬閔の間に割り込んだ。
「白銀白虎とは、王都長安の西方を預かる大幇会のことだ。お前たちが知らないのも無理はないが、都では知らぬ者なしなんだぞ? そして、俺とこの三人はその幹部なんだ」
「へぇ! ってことは、かなり偉いんだ?」
実に無邪気な表情で閔敏が当たり前のことを問う。しかし羨望の眼差しを受けて叙修は得意になった。
「ああ、とてつもなく偉い。――そうだお前たち、何だったらまた俺の配下につかないか。今度は白銀白虎の一員として、また江湖で暴れ回ってやろうじゃないか」
「――え?」
「まずは大明寺だ。お前たちも言った通り、俺はあそこのくそ坊主のおかげで一敗地に塗れた。だが逆に考えれば、あの寺には紅袍賢人の武芸書が隠されているということだ。あの時居合わせた小僧も言っていただろう? まずはそれを奪いに行く。お前たちもついて来い」
そこまで言ってから、叙修はふと表情を曇らせた。馬閔の反応が思いの外悪かったからだ。二人は顔を見合わせると、揃って頭を振ったのである。
「悪いけど、兄貴。俺たちはもう荒事には手を出さないよ」
「なんだと?」
叙修の眉が跳ねる。
「お前たち、今しがた自分で言ったじゃねぇか。くそ坊主に負けて悔しい思いをしたんだろう? じゃあ「お礼参り」に行くのは当然だろうが」
「残念だけど、もうあの寺に金剛智って坊さんはいないよ。――それに、もうどうでも良いんだよ。そんなことは」
そんなこと、と叙修は思わず繰り返した。正に青天の霹靂、予想だにしなかった返答である。
馬参史は顔を伏せつつ続けた。
「兄貴がここを去ってから、俺たちは兄貴の後ろ盾を無くして大変だったよ。金は手に入らねぇし、官憲にも追い回されるようになった。どうにもならなくなった時、誰が助けてくれたと思う?」
「……だ、誰だ?」
答える代わり、馬参史は斜め上を指し示した。その指の先にはこの店の扁額が掛けられている。――「梁家甘処」。
唐突に、叙修はその意味することろを悟った。
「じゃあまさか、この店はまさかっ!」
「そのまさかだよ。俺たちが困窮したところを救ってくれたのは、俺たちが散々苛めてきたあの梁家の娘、梁翡蕾さ」
バァンッ! 叙修の手が卓を打ち据える。衝撃で皿が跳ね上がり、まだ残っていた揚げパンが宙を舞った。わあっ、と閻厖がそれを受け止める。
「お前ら、あの小娘にほだされて、それで今はあいつの手先になって働いているって言うのか!? 自尊心もへったくれも無ぇってのか!」
馬参史は慌てて両手を振った。
「違うよ兄貴、それは違う。俺たちはただ、荒事から足を洗ったんだ。梁姑娘の下で働いているのは、俺たち自身の意思だ」
「誰がお前らの面倒を見てやったと思っているんだ? 俺は貴様らの兄貴分だぞ、俺の言うことは黙って聞きやがれ!」
「やだよっ!」
ギロッ、叙修の射抜くような視線が閔敏を刺す。しかし閔敏は毅然とした表情で、
「あたしは昔、全くもって分別のつかない子供だった。でも今は、人並みの分別はつく。あたしにはもうわかるんだ。兄貴は間違ってる!」
「間違っているだと? 何が間違いだって言うんだ!?」
「目を覚まさないことさ。兄貴、俺たちは兄貴のためを思って言ってるんだぜ?」
叙修は何も言わない。ただ拳を握りしめ、肩を震わせるのみだ。まさか、かつての義弟義妹にかような諭す言葉を向けられようとは。
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