第九節 解穴

 それに、と郭翰は続ける。

「いきなり郭家の敷地に乗り込むような方に相応しい服など、到底思いつきも致しません」

 言外に無礼者と罵ったのである。それがわからぬ斐剛ではない。さっと満面に怒気を漲らせたが、何とか一旦は堪える。

「勝手に上がり込んだ無礼は謝罪する。だが俺には先生の織った衣が必要なのだ。武林の盟主、英雄の名を轟かせる者に相応しい衣が。それを創り出せるのは先生しかいない」

 郭翰の目つきがさっと変わった。何事か言おうとして、しかしそれよりも早くその意を発したのは別の口だった。

「他人の家に上がり込んで物をよこせだなんて、強盗のすることね。そんな強盗が天下の英雄になろうですって? なかなか面白い冗談だわ。笑えないあたりが実に残念だけど」

「貴様っ!」

 さっと斐剛の視線が言葉の主、すなわち東巌子を見据える。その片眉がぴくりと動いた。斐剛は部屋に入るなり郭翰しか見ていなかった。おおかたこちらのことを白髪の老婆とでも思い込んでいたに違いない。現に口先に「ババァ」と言いかけたのを途中で引っ込め、次いでその肌を晒した姿に口元を歪める。

「遊女風情が、我が覇道に口を挟むな!」

 東巌子を郭翰が召した遊女かめかけと思ったらしい。だが斐剛が吼えたところで怯む東巌子ではない。むしろこちらも嘲笑を返す。

「あなたの覇道は他人に無理強いをすることなのね。あなたが武林の英雄と呼ばれる日が来るとすれば、それは他の人間が死に絶えた日に違いないわ。――笑えない冗談はほどほどにして、さっさと帰りなさいよ。郭翰は今大事なところなんだから邪魔しないで!」

 遊女と蔑んだ相手に面と向かって罵倒された斐剛は、あまりのことにすぐには言葉が出ない。まるで言い負かされてしまったかのような沈黙。斐剛はさっと視線を逸らすと、再び郭翰を見据える。

「……先生の返答を聴かせていただこう」

「取り込み中です。お帰りを」

 郭翰はもはや斐剛を見てすらいない。手元に視線を落とし、残り僅かで完成する刺繍に没頭している。もはや斐剛など眼中に入っていないのである。

 斐剛の握り締めた拳がわなわなと震えた。

「……白銀白虎の幇主は他人に否やを言われたことなど一度もない。それがどうだ、この郭家を訪れてからというもの、ただの一人も俺を敬おうとはしない。こんなことがあって良いものか? このまま引き下がれるとでも?」

 ぶつぶつと呟いていた斐剛は、顔を上げるやとうとう怒りを露わにして吼えた。

「そんな用事は今すぐ終わらせてやる。俺の言うとおりにしやがれ!」

 剣を引き抜き真上に振り上げる。害意を悟って顔を上げた郭翰の、その手中の衣装目がけて振り下ろす。郭翰が己の依頼を断るなら、その断る理由である今の衣装づくりを直ちに終わらせてやろうと言うのだ。まったく道理に適わない横暴である。

「何をするの!」

 間一髪、東巌子の杖が剣刃を一突きして逸らす。ガツッ、と隣にあった空き椅子に喰い込んだ。うわっと叫んで郭翰がその場を飛び退く。

「貴様っ、武芸ができるのか!」

 驚きも露わに怒鳴る斐剛。まさかこの吹けば飛ぶような華奢な娘に武芸ができるとは思いもしていなかったようだ。今の一手、剣を受け止めようとしていれば斐剛の膂力をそのまま受けることになり、止めることはできなかった。それを横に突いて逸らすとは、的確な判断であるが実践は困難を極める。だがこの娘はそれをやってのけたのだ。

「小娘が二人も揃って俺に盾突きやがって。そんなに痛い目が見たいか!」

「おいっ、それは瑛妹のことか!?」

 郭翰が顔を真っ青にして叫ぶ。斐剛は剣が喰い込んだ椅子を蹴り飛ばし、剣先を東巌子に向ける。その時にはすでに、東巌子は寝台を降り傍らに寄せてあった車椅子に乗り移っていた。斐剛の口元が嘲笑するように歪む。足が動かぬと侮っているのか。

 次の瞬間、東巌子は杖で寝台を押した。反動でガラッと車輪が回り間合いを詰める。斐剛の嘲笑は即座に驚愕へと取って代わる。東巌子は腰を狙って杖を一薙ぎ、カンッと剣を掲げて受ける斐剛。東巌子は即座に手を変えて丹田を突きにかかる。斐剛は無理やりに体を捻って横に跳び、間合いの外に逃れた。

「おいっ、答えろ! 瑛妹に何をした!」

 壁際に貼りつくようにしながら郭翰が怒鳴る。だが斐剛にそれを気に掛ける余裕などなかった。東巌子が再び床を突き急接近を仕掛けてきたからだ。斐剛が腕を掲げるへ、杖の先端をピタリとその腋下に向ける。腋下は急所、このままでは自ら突かれに行くようなものと悟り、斐剛はまたも間一髪で跳んで逃れた。

 東巌子は今度は弱く床を押した。眼前を剣光が掠め過ぎる。東巌子が前進したところを迎え撃とうとした斐剛だったが、今度は移動量が少なかったために間合いを逃したのだ。間髪入れずに距離を詰め直す東巌子。前に出ていた左膝を突く。ぐっと呻いて上体が下がったところへ杖を振り上げる。顎を直撃した。

 丸めかけた背中を大きく仰け反らせ、斐剛の巨体が浮く。しかしその瞬間、斐剛の手が揺らめいたかと思うと、杖の先端をはっしと掴んだ。あっと叫ぶ暇もなく東巌子の体が車椅子から離れる。思い直して手放したときにはもう遅い。斐剛の体が扉を突き破ってその先の院子にわに転がり出る。東巌子もまた車椅子から落ち、脇腹を飛び出した下枠に打ち付けてしまった。メキ、と肋骨から嫌な音。だが東巌子にとってはそれは些末事に過ぎなかった。更に重大な事態が発生してしまったからだ。

 夕日が差し込んでいる。院子を照らし、斐剛を照らし、そして東巌子の身にも降り注ぐ。斜陽を遮るはずの扉は壁諸共に斐剛が壊してしまった。瞬く間に東巌子の肌が熱を帯び、煮え湯を浴びたかのように真っ赤に変わる。

「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫んだ口腔内にまで陽が届いて皮膚を焼く。腰から下が動かない東巌子は走って逃げることができない。そもそも、壁が壊れてしまった今、室内は余すところなく斜陽に照らされている。逃げる場所など無い。体を丸めて小さくしようとするが、不幸にも今の東巌子は肌を多く露出した服装だ。日光は容赦なく東巌子を焼き焦がす。

「織女様!」

 郭翰が叫んで何かを東巌子の上に被せかけた。が、直後に郭翰は東巌子の手によって突き飛ばされた。被せられる瞬間、東巌子の視界にこちらへ向かって来る斐剛の姿が見えたからである。咄嗟に郭翰を突き飛ばしたものの、視界は布地によって遮られる。直後に壇中だんちゅう穴へ衝撃が走る。東巌子には見えなかったが、斐剛の蹴りが炸裂したのである。東巌子の体は軽々と吹っ飛び部屋を横切って寝台に突っ込む。直後、既に一度壊れたことのある寝台はまたしても脚が折れて落ちた。

「あぁ……織女様っ!」

 悲痛な声を漏らす郭翰の頭を、斐剛の熊のような手がむんずと掴んだ。尻餅を突いた状態の郭翰を無理やりに吊り上げる。

「さあ郭先生、もう一度だけ問うぞ。俺に見合う服を作るのか、作らんのか。よぉく考えて答えてみろ」

「あんたに見合う服なんて、この僕に作れるはずもない!」

 その言葉は二通りの意味に取れるが、良い意味でないことは明白だ。斐剛はまるでごみ屑を投げ捨てるかのように郭翰を放った。ガツンと壁に頭を打ち付けうずくまる郭翰。斐剛はそれを鼻で笑いつつ、視線を壁に掛けられた直裾袍に向けた。

「お前がどうしてもやらぬと言うなら仕方がない。これを貰って行こう。派手さが大分欠けるがな」

 手を伸ばす斐剛。すると郭翰ははっと身を起こし、這いずるようにして斐剛の脚に組み付いた。

「やめろ! それは父上の形見、貴様のような輩に渡すものか!」

 斐剛が無言のままに拳を振るう。ガツッと顔面を直撃し、郭翰の鼻から血が噴き出す。

「俺以外に英雄の衣を作られては堪らん。お前はここで殺しておこう」

 更に拳を二回振るう。しかし郭翰はまだ組み付いたままだ。次いで斐剛は両手で郭翰の頭を挟み持ち、ゴッと膝を入れる。ぐるっと郭翰の眼球があらぬ方向を向いた。

「悪党め!」

 そこへ駆け込んで来た者がいる。程瑛だ。その手には厨房から持ち出してきた包丁が一本握られていた。目の前のことだけに気を取られていた斐剛には背面への注意が漏れていた。はっとして振り向くや、程瑛が遮二無二振り下ろした包丁が左の額を切りつけた。本来ならば武芸を知らぬ女の不意打ちなど斐剛が避けられぬはずがない。だがこの場面においては脚に組み付いた郭翰が邪魔で後退できなかったのだ。

「小娘が二人も、よくもっ!」

 郭翰の頭を投げ捨てようやく二歩下がる斐剛。切られた左額に当てた指の間から血が流れ出る。ギロッと右目で睨み付ければ、程瑛は人を傷つけたことで動転していたこともあり、きゃっと叫んで包丁を取り落とした。何か武器になる物をと思って厨房から持って来たのだが、当然ながら人を害することなど初めてだったのである。慌てて手を伸ばし意識朦朧としている郭翰を抱き起こす。

「兄さん、しっかりして! 早く逃げるのよ!」

「だめだ、それよりも織女様を……」

 程瑛とて非力な女の身の上、郭翰を引きずって行くことすらできない。怒気満面の斐剛が二人の前に歩み寄る。殺される、と程瑛は直感した。逃げることもできずぐっと瞼を閉じようとした程瑛、その体が不意に押し倒される。郭翰が覆いかぶさったのだ。斐剛の凶刃から庇おうとしている!

「だめよ、兄さん! だめっ!」

 程瑛もまた郭翰を庇おうとする。が、郭翰はどこからそんな力が湧いて出るのか、程瑛に覆いかぶさったまま動こうとしない。このままでは背面から真っ二つだ。

「助けて――誰か!」

 悲痛な叫び。それを聞き届けたのは天か人か。

 斐剛は振り下ろそうとした剣を寸前で止めた。ただならぬ気配を感じ取ったからだ。さっと視線を部屋の奥、壊れた寝台へ向ける。目を見張らずにはいられなかった。白煙が立ち上っている。火の手が上がったのではない。これは内力の迸りだ。上乗の内功が噴出する際に発せられる蒸気のようなものだ。なぜそんなものが?

 ふっと室内が暗くなる。夕日が地平線の向こうへと落ちたのだ。夜が訪れた。陽の光に放逐されていた闇が戻って来る。

 ドガッ! 壊れた寝台の残骸が一瞬にして吹き飛んだ。自身に向かって飛来した木っ端のいくつかを叩き落す斐剛。瞬間、掌がジンジンと痛む。たかだか余波で吹き飛んだだけの木片にこれほどの内力が宿るものだろうか?

 ゆらり、白煙の中で立ち上がるは東巌子。いや違う。東巌子自身が白煙の発生源だ。真っ赤に腫れた全身からゆらゆらと白煙が立ち上り、火脹れのできた唇の間からは魔物が火を噴くかのように蒸気が迸る。ぎろりと斐剛を睨み付けた双眸はもともと赤い瞳がさらに充血して真っ赤になっていた。今の内力の発露で着ている服の大部分は引き裂け、赤く腫れた素肌が露わになっている。そんな東巌子の肩に、ひらりと一枚の薄絹が被さる。透けるような薄桃色の紗、縁取りは東巌子の肌にも負けぬ純白。肩から袖にかけて口が広がり、袖口には金糸でかささぎの翼をかたどった刺繍が施されている。それが今は東巌子の体から発せられる内力にゆらゆらと風もないのに揺らめいていた。

 それはあまりにも神秘的で、あまりにも蠱惑的で、あまりにも畏れ多い姿であった。

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