第八節 招かれざる客

 夕暮れ時、食糧の買い出しから戻ったばかりの程瑛を呼び止める者がいた。

「失礼、こちらは郭翰先生のお宅かな?」

 振り向いた程瑛は「そうですけれど」と返しながら呼び止めた相手の上から下まで視線を巡らせた。

 やや肩幅の広い大柄な男だ。頭に三角の編み笠を被っているため顔つきはよくわからないが、年の頃は三十後半、眼光鋭く威圧感がある。全身をすっぽりと覆う赤黒の外套を羽織っていたが、腰の位置にある膨らみから剣を下げた武芸者と見て取れた。

 男は程瑛の答えに口元を綻ばせ、それは重畳、と漏らす。

「先生の噂を聞いて遠路はるばる赴いた甲斐があった。それで、先生はご在宅かな?」

 男の言葉に程瑛は心中ため息を吐いた。またこの手合いがやって来たのか、と。

「いるにはいます。が、お会いになるだけ無駄かと存じます。あれは人の依頼を受けては何も作りませんので。作るか作らないかは、その時の気分次第で」

 郭翰は金のために衣装づくりをしているのではない。金は薄給とは言え役人としての収入がある。郭翰が衣装づくりをするのは全くもっての趣味、それ故に人の依頼を受けることはなく、いつでも気ままに作りたいものを作って来た。出来上がった物は郭翰がこれはと思う人物に会った時に直接手渡されるのだ。故にどれだけ郭翰の制作した衣装が「賜福于人幸福を与える」「如願以償願いをかなえる」との噂が広まろうと、それを手にする人間は限られる。業を煮やした者がこうして直接郭翰の元を訪れ、そして丁重に追い返されることはよくある光景だった。

「特に今は佳境に入っておりますので、人に会うことも無いでしょう。どうかお引き取りを」

 実際のところ、郭翰の羽衣制作は今夜にでも完成する見込みであった。そんなところに水を差すかのように客人を入れるのは憚られるし、入れたところで郭翰は会う暇などないと言うに違いない。であればこの客人には今のうちから諦めてもらうのが双方にとっての最善だ。

 ところが男はそれで納得するでもなく、むしろむっと唇を引き結んだ。

「白銀白虎幇の斐剛いごうが来たとお伝え願いたい。姑娘とて白銀白虎の名は知っていよう?」

 白銀白虎は確かに名の知れた大幇会、江湖の人間で知らぬ者はいない。しかしそれは江湖の人間での話。彼らの本拠地たる長安ならばまだしも、ここ成都に暮らす武芸を知らぬ若い娘が知るはずもない。そして程瑛はまた、武芸者というものが面子を非常に大事にすることを知らなかった。

「申し訳ありませんが、存じ上げません。どうか日を改めてまたお越しください」

 男の顔面に怒気が満ちる。天下の白銀白虎幇の名を出しても、この娘はまったく態度を改めようとしない。それどころかその名を知らぬとまで言ってのけた。知っているのに知らぬふりをするのか、あるいは本当に知らないのか、そんなことは関係ない。いずれにせよこれは彼にとっての侮辱でしかなかった。

 どん、と程瑛の肩を押し退ける。予想だにしていなかった衝撃に程瑛は足をもつれさせてその場にしりもちをつく。その間に斐剛は敷地に一歩踏み込んで背中越しに門扉を閉じた。何をする、と言いかけた程瑛の眼前にすらりと抜いた剣先を突き付けた。

「剣は口ほどにものを言う。俺が何を言いたいか、本当に愚かでなければ判るはずだ」

 程瑛はごくりと唾と一緒に出かかった言葉を飲み込む。それでいい、と斐剛はにやり微笑んで奥へ進む。

(大変! 郭翰が危ない!)

 震える膝を叱咤して無理矢理に立ち上がり、斐剛の後を追おうとする。だがそこでふと思いなおす。あちらは武芸者、こちらはか弱い女の身の上。追いかけたところで何ができる?

 程瑛は一瞬考え、そしてすぐさま駆け出した。

 さてそのころの東巌子はというと、自室の寝台で身を起こした姿勢のまま膝の上に衣装を広げて楽しんでいた。上はこれ、下はこれかあるいはこちらか。その組み合わせを考えては実際に身に纏ってみる。これが東巌子のここ一年の楽しみであった。

 一年――そう、一年だ。郭家での生活は、実に一年の歳月が経とうとしていた。

 郭翰の羽衣制作は順調だった。彼の中にはきっと、東巌子に着せたい、東巌子が着るべきとする衣装の完成形が見えているのだろう。もはやそこに迷いはなかった。布地を織り上げた後は裁断と裁縫に取り掛かる。ここまでくると完成まではあと少しだ。ここのところは完成直後に着てもらうためと言って、東巌子の居室に毎日足を運んでは作業に励んでいる。現に今も東巌子の寝台の横で作業に没頭していた。壁にはあの深衣と直裾袍を掛けて気を抜くまいとしている。

 普段の郭翰はおしゃべりで落ち着きがない男だが、制作に没頭している間は集中のあまり一言も話さなくなる。長い年月を一人で過ごしてきた東巌子はそれを特段苦痛には感じないのだが、それでも一抹の物足りなさがある。目の前に話相手がいるのに話しかけられないだなんて……。

(これが辛悟なら気兼ねなく話しかけられるのに)

 ぽつり心中で呟いて、はっとして頭を振る。どうして今、辛悟のことを思い浮かべてしまったのだろう。いつも考えないようにしていたのに、なぜ?

「――牽牛けんぎゅう様を想っておいででしたか?」

 突然、手元の刺繍針を見つめたままの郭翰が思いもかけないことを言う。東巌子は目を丸くして思わず問い返した。

「どうして?」

「日に日にため息を吐く回数が増えているでしょう? 七姐誕たなばたがもうすぐですから、きっと天上の牽牛に今年は逢えるかと心配になっておられるのかと」

「そんな、あいつは牽牛なんて人柄じゃ――」

 言い差してからはっと口を噤む。郭翰が視線を下げたままで助かった。これではまるで、辛悟を己にとっての牽牛、すなわち想い人と言っているようなものではないか。それに自分ではまったく気づかなかった。まさかため息の回数が気取られるほどに増えていただなんて……。

「冗談はよして。それより、まだ出来上がらないの? 私はこうして今か今かと待っているのに」

 東巌子は丈の短い紅色の裙から白い脚を覗かせ、上は黒の兜肚まえかけ一枚の姿だ。実際には普通の兜肚よりも布地が多く背面も覆われているのだが、肩を露わにしていることに変わりはない。要するに下着一枚であることに変わりはなかった。世間一般の女子ならばこんな姿を男性の前で見せるどころか、そもそも丈の短い裙など身に着けようともしない。しかしながら東巌子はそんなことなどお構いなし、程瑛が真っ赤になって止めるのも聞かずに郭翰お手製の色々ときわどい衣装も楽しんで着回していた。特に夏が近づいてきたこの時期、涼しく過ごすにはこのぐらいの薄着がちょうど良かったのだ。

「もうすぐですよ。この刺繍が終われば完成ですから」

 郭翰はそう言いながらも視線を逸らさない。こんな薄着の女が隣にいても目先のことに集中できるのだから、程瑛が複雑な心境で嘆く気持ちもわからないではない。

 がたがたと、部屋の外が騒がしくなった。買い物に出ていた程瑛が帰ったのだろうか。がたんばたんと乱暴に扉を開け閉めする音が少しずつ近づいてくる。そのうちどすどすと足音が近づいて部屋の前で止まった。東巌子は眉を顰めた。これは程瑛の足音ではない。内力の籠った重々しい足音だ。

「郭先生、こちらに居られるか」

 野太い男性の声。その主は返答も待たずに戸を押し開く。郭翰も何事かと顔を上げてそちらを見やる。扉の前には肩幅の広い大柄な男が立っていた。頭に三角の編み笠を被っており、また逆光で顔つきはよくわからないが、年の頃は三十後半、眼光鋭く威圧感がある。全身をすっぽりと覆う赤黒の外套を羽織っていたが、腰の位置にある膨らみから剣を下げた武芸者と見て取れた。

「どちらさまでしょう?」

 郭翰が問う。男はちらりと郭翰の手元を見てから破顔する。世間広しと言えど、この成都の城市で針仕事をする男など一人しかいない。男は編み笠を取って顔を晒した。四角い輪郭の彫の深い顔、顎には首を隠すほどの長い髭。額には銀虎をあしらった鉢巻が締めてあった。

 男は一歩部屋に踏み込んで抱拳礼を取る。

「突然の参上、失礼つかまつる。それがしは長安西の守り、白銀白虎幇幇主の斐剛と申す者。このたびはゆえあって参上した次第。先生、どうかこの斐剛めに一つ相応しい衣装を拵えて貰えまいか」

 郭翰は突然の来訪者に面食らった様子だったが、ややあって緩やかに頭を振った。このような事態はなにも初めてではないのだ。

「申し訳ありませんが、私は己の気の向くままに衣装を拵えるのみ。求めに応じて針を手にしたことはありません」

 郭翰の作る衣装の噂は随分と広まっている。今でこそ少なくなったが、少し前までは連日のように人が訪ねて来ては衣装制作を依頼していた。それこそ千金を積んで首を縦に振らせようとしたものだ。しかし郭翰が衣装を作るのは金のためではない。その人物を見て、その者に相応しい衣服の形が見えたとき始めて制作に取り掛かるのだ。

 だが今はどうあっても他人の依頼を受けることはない。なぜならば今の郭翰には東巌子の羽衣を作るという大きな目標があるからだ。これが完成せぬ限りは次のことなど頭の片隅にも上らない。

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