第十節 織女が天に帰るとき

「小娘……貴様一体何をした?」

 斐剛は困惑を隠しきれない。先ほどの攻防では東巌子にはこれほどの内力は感じられなかった。それがどうだ、今は両の足で立っているばかりではなく、迸る内力は当代類を見ない強烈なものだ。一体どこにこんな力を隠し持っていたのか?

 東巌子が一歩踏み出す。斐剛は直感で危険を感じ剣を薙ぐ。ガキッ! 斐剛は受けきれずに数歩蹈鞴を踏む。剣を持つ右手を抑え驚愕の色を隠せない。だらりと指の股から血が流れ出た。今の一撃で裂けてしまったのだ。

「うあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 東巌子が絶叫する。ぎょっと斐剛が身構えるのへ、瞬く間に連撃を浴びせかける。東巌子は狂乱するように滅茶苦茶に杖を振るい、武芸の技などそこには一欠片も含まれていない。しかし、その一撃一撃には強烈な内力が込められている。いずれの攻撃も斐剛は防いだが、そのたびに表情を歪める。骨身を激痛が突き抜けているのだ。斐剛は完全に劣勢に回されていた。歯を食いしばり、何とか反撃に移ろうと隙を突いて腰を狙う。だが東巌子は防御を捨てて胸を狙った。通常の手合わせならば明らかな失敗だ。斐剛の剣が先に到達する。が、東巌子の体はこれをバシッと弾き返した。内力が剣刃を弾き返すほどの力となって東巌子の身を包んでいるのだ。斐剛は愕然とするより先に胸を打たれ、くらりとその場でよろめき、次いでさっと跳び退いて距離を取る。

 院子まで出て剣を構え直す斐剛。その場からは動かず、東巌子を誘い出すつもりだ。その魂胆は見えている。東巌子の示す内力は異常なほどに強力で、今の斐剛ではどうやっても敵うものではない。それを知りながら退こうとしないのは、あの直裾袍だけでも奪い盗ろうと狙っているからだ。東巌子を院子へ誘き出し、隙を見て直裾袍を奪い逃走する腹積もりなのだろう。

 それがわかっていたから東巌子は動かなかったし、わかっていなかったとしても動けなかった。がたがたと全身を震わせ、突如その場に膝を突く。ゼイゼイと荒く呼吸を繰り返し、開いた口からはなおもうもうと白煙が立ち上っている。

 あれだけの内力を有する者が、先のたった数手で息を上げるだと? ――その様を見た斐剛、状況を悟るやげらげらと声を上げて笑った。

「小娘が、なんの邪法か知らんが無理をしたな? 御しきれぬ内力が体を蝕んでいるのだろう? この俺を打ち負かそうとした報いだ!」

 東巌子はもはや戦える状態ではない。斐剛の言う通り、東巌子の体内では内力が暴れに暴れていた。身に余る内力は自滅を招く。東巌子としても狙ってこのような事態を招いたのではない。すべては偶然が引き起こしたことだ。

 そもそも東巌子が嫦娥から受けた点穴は強力かつ純粋な陰気によって施されたものだった。これを解く最短の方法は陽気を以て相克させることだ。本来ならばこれは大して難しいことではなかった。おそらくは点穴を施した嫦娥も数日で解穴されると見込んでいたに違いない。陽気は日光を浴びることで補うことができるからだ。

 だが東巌子にはそれができなかった。東巌子の体は生まれつき日光を浴びることができなかったからだ。陽光を常に遠ざけなければならない東巌子にとって、嫦娥が施した点穴はこれ以上ない難問であったのだ。東巌子は気付いていなかったが、最初に解穴に成功したのが右手であったのは、右手だけが日光に晒されたことがあったためである。

 そんな東巌子でも陽気を得る方法が一つだけあった。それは月の光だ。月は太陽の光を受けて輝く。ゆえにそれは陰中の陽だ。東巌子は月の満ち欠けが解穴に影響することに気付いていた。月光が知らず知らずの内に陰気を弱めていたのだ。

 しかし今、東巌子は意図することなく全身に夕日を浴びた。純陽の光がその身に降り注いだのだ。東巌子の白く透明な肌は陽気をそのまま体内に取り入れてしまう。東巌子の体内では突如として流れ込んだ陽気と嫦娥の陰気とがぶつかり合い、大混乱を引き起こした。陽気の灼熱と陰気の極寒が同時に湧き起こって全身いたるところでせめぎ合う。もしもそのままであったなら、東巌子は七孔噴血して壮絶な死に様を演じたことだろう。だがここでもう一つの偶然が重なった。斐剛の蹴りが壇中穴に入ったのである。

 東巌子の体内で互いに相克しようとぶつかり合っていた陰陽の気が、この一撃によって一つに混ざり合ったのである。相克から相生へ。無に帰すはずであった強大な二つの力が、一つに溶け合って無限とも言える内力へと昇華したのである。嫦娥の点穴は瞬く間に解かれ、それどころか全身を爽快感が突き抜ける。あまりの快感にしばし意識が飛んでしまったほどだ。

 ところがここで新たな問題が発生した。東巌子の体内で生じた内力があまりにも大きすぎたのである。斐剛の言う通り、手に余る内力は劇毒に等しい。本来ならば気息運行によって静かに収めるところ、今は火急の事態だ。狂ったように全身を駆け抜ける内力を暴れるままにして斐剛に攻めかかった。全身から生じる白い蒸気は東巌子が制御を放棄したために体外へ放出された余剰の内力であった。今もなお、むしろ先ほどよりも一層激しく噴き出している。

「……二人ともっ、逃げて!」

 絞り出すように声を出す。今の数劇で斐剛を打ち負かせなかったのは痛恨の極みだ。暴れる内力がとうとう体の自由を奪ってしまった。この身が滅びるだけならまだ良いが、郭翰と程瑛の二人を守ることすらできなかったとなれば死んでも死に切れぬ。だが郭翰と程瑛は腰が抜けてしまった様子でその場から動く気配はない。

 斐剛が静かに歩み寄る。剣を大上段に振り上げる。東巌子はそれを視界に入れながら動けない。斐剛の顔がにやりと笑って勝利を確認する。

「うあぁぁぁぁぁ……っ!」

 やんぬるかな、激痛に苛まれ、己の無力さに絶望し、東巌子は血の滴る口を大きく開いて叫んだ。誰でもいい、ここへ来てほしい。できることなら最後にもう一度でも――!

 チィンッ! 甲高い音が鳴り響き、直後に斐剛の剣がドスッと床に突き刺さる。一拍遅れて何かが床にカランと落ちる。それは一個の碁石だった。斐剛は手元の剣と碁石とを見比べる。間違いない、振り下ろした剣の軌道を逸らしたのはこの小さな碁石だ。一体誰が、どこから――?

「やっと見つけたぞ、東兄」

 院子の向こうへ視線を向ける。塀の上に人影が一つ。若い男だ。薄青色の着物に茶色の縁取りをした上着を着て、腰帯の端には翠玉を揺らしている。ジャラ、と右の手中で碁石が擦れ合う。

 東巌子はわが目を疑った。だが確かに彼はそこにいる。ずっとずっと会いたくて会いたくて仕方がなかった相手が。よりにもよって、こんな時に!

「辛悟――っ!」

 辛悟はひらりと塀から飛び降り院子へ降り立つ。さっと身を翻して身構えた斐剛にじろりと一瞥を向けた。

「……それで? テメェは東兄をどうするつもりだ?」

 その眼にはありありと殺意が漲っている。斐剛は思わずわずかに怯んだ様子を見せ、ちらりと視線を辛悟から東巌子、そして室内の直裾袍に移す。もはや斐剛の今の目的はあの直裾袍のみ。ざりっ、と足先をそちらへ向けようとする。瞬間、その爪先で床板が爆ぜた。辛悟がその指で碁石を弾いたのだ。

(なんて指力、なんて暗器の術なの!)

 東巌子は心中で驚嘆の声を上げる。東巌子の知る辛悟はあのような暗器の技を使ったことがない。おそらくはこの一年の間にどこぞで身に付けたものだろう。だがあのような技はそうそう世にあるものではない。

 辛悟はぐっと眉間にしわを寄せ、威嚇するように低い声を発した。

「そっちじゃねぇ。こっちへ来い。東兄から離れるんだ。次は急所を狙う」

「なんだと!」

 斐剛は大音量で吠えつつも、ぐっと奥歯を噛み締める。無理もない。自身が若造の言葉に抗えぬとは屈辱だ。室内へ向かうには東巌子を跨がなければならない。だがここで無理に室内へ踏み入ろうとすれば背中に碁石の暗器を喰らうことになる。

 東巌子は息を荒げたまま二人を交互に見た。辛悟はぐっと斐剛を睨みつけたまま、右手は腰の位置で碁石を即座に飛ばす構えだ。対する斐剛はしばらく思案する様子を見せたが、、ほどなく正面を辛悟に向けると剣を胸の前に構えさっと前に飛び出した。直後、辛悟の手中から碁石が飛び出す。チィン! 剣に当たって弾かれた。

(マズい!)

 斐剛は気づいたのだ。辛悟の暗器術は世に類稀な絶技であるが、辛悟自身の内力がまだ十分な領域に達していないことに。一発に集中できるならばまだしも、連続で飛ばすにはまだ実力が伴っていなかった。辛悟は上手いこと相手が怯んで引き下がってくれればと虚勢を張って脅しただけだ。結局はあっさりと見破られてしまった。

「逃げて、辛悟!」

 東巌子は何とか立ち上がろうと足に力を込める。が、ほぼ一年もの間動かしていなかった足だ。一度膝を突いてしまっては再び立ち上がるのは容易ではない。せめてあと一度立ち上がることができたなら!

「ちっ――!」

 碁石を三発、一気呵成に弾き飛ばす辛悟。斐剛の剣が閃きこれを悉く撃ち落とす。その隙を縫って辛悟は左手で掌を繰り出した。「辛氏大篆掌法しんしだいてんしょうほう」の「十字訣」、縦横一画ずつの単純な技だがそれだけに威力がある。

 斐剛は横の一画をやり過ごし、続く縦の一画は左手で受け止める。と同時に内力を送り込む。辛悟はさっと手を引っ込めたが、これで斐剛に及ばない内功であることを証明してしまった。

「白銀白虎幇主に盾突いた報いだ。死ねっ、小僧!」

 斐剛の攻撃が激しさを増す。単純な力量差で言えばやはり斐剛の方が上手だ。加えて斐剛の手には剣があり、対する辛悟は無手である。右手で碁石を飛ばし、左手で掌法を用いてなんとか渡り合っているが、その差は歴然。辛悟はただちに劣勢に陥った。

「程瑛!」

 東巌子は視線を室内に向けて叫んだ。名を呼ばれた程瑛はびくっと身を震わせる。彼女は意識朦朧としている郭翰を抱きかかえて目の前の攻防をただただ見守っているしかできなかった。それがまさか名を呼ばれるとは思ってもいなかったのだ。

「しょ、織女様、私はなんてことを……」

 斐剛が完全に正気を失ったのは確かに程瑛が切りつけたことも一因だろう。だがそれは致し方のないこと、東巌子もそれを責めるために声をかけたのではない。

「それはどうでもいい。程瑛、私のお尻を蹴り飛ばして! 今すぐに!」

「――は? えぇっ!?」

 この場面でまさかそんなことを頼まれようとは思いもしない。東巌子はどうしてしまったのか? だがその眼は真剣そのものだ。

 院子に目をやる。辛悟――一年前に追い返してしまったあの人だ――は、程瑛の目から見ても劣勢なのが明らかだ。今この場で頼りにできるのは、あの人と東巌子だけ……。

 程瑛が逡巡しているのを見て、東巌子はふと歪んだ笑みを浮かべた。

「私のことが憎いでしょう? いきなり現れて、あなたの郭哥哥にいさんを横取りして。そのうえあなたの花畑を踏み躙った! それなのに郭翰の気を惹きたいばかりに私の世話をするなんて、ずっとずっと惨めな思いをしてきたでしょう? その思いを胸に仕舞ったままここで死ぬつもり?」

「そんなこと――!」

 程瑛は今まで腰が抜けていたことなど忘れたかのようにすっくと立ち上がり、東巌子の元へ駆け寄った。

「そんなこと、ない! 私は織女様を憎んでなんかいない。ただ――ただ、羨ましかっただけなのよ!」

 その美しさが羨ましかった。透き通る肌が、その美貌が、そのたおやかさに嫉妬した。郭翰にあれだけの情熱を抱かせる人が羨ましかった。郭翰をあれほどまでに悩ませる人が恨めしかった。郭翰が自ら衣を作りたいと言わしめる女性が羨ましかった。自分にも作って欲しいとさえ羨望した。でも、それらは全部心のうちに仕舞い込んでいた。郭翰が今を幸せに生きられるなら、己は何だって我慢できる。耐えていける。それなのに――!

「どうして、それを言ってしまうの!」

 思いの丈を込めて右足を振るった。それが東巌子の腰、尾骶びてい骨の辺りを蹴りつける。まるで岩を蹴ったかのような反動に「あっ」と声を漏らしてよろめく。その一方で東巌子はうっと一声呻くや口から黒々とした汚血を吐いた。

 まさか血を吐くとは思っていなかった程瑛、さっと血の気が引く。だが東巌子はすっと腰を伸ばすや前に飛び出した。先ほどまでの苦しそうな様子はどこへやら、それこそ天女のような軽やかな身ごなしだ。

 月光が陽気をもたらすことに気付いていなかった東巌子は、解穴に際し自らの内力を以て抗おうとした。東巌子は女の身、ゆえにその内力も陰気を帯びている。すなわち、東巌子の体内はこの一年で大きく陰の側に傾いていたのである。そこへ日光の陽気が降り注ぎ、斐剛の蹴りがきっかけとなって、陰陽和合の強大な内力が生じた。だが、わずかに陰気が勝っていたのだ。内力の勝手な発露が収まらないのはこの不和が原因だ。そこで程瑛に言ってわざと「長強ちょうきょう穴」に打撃を与えた。これはとく脈第一の経穴である。これによって陽気が増し、ついに陰陽の均衡が完全に揃ったのだ。

 この時点で辛悟は窮地に陥っていた。斐剛の突きから仰け反って逃れれば、その踵がごつんと何かに当たる。院子の隅に植えられた花畑の縁だ。これ以上退こうとすれば足を突っ込むことになる。そこへ斐剛の袈裟斬りが襲い掛かる。右手で立て続けに碁石を飛ばすが、咄嗟の事でわずかに狙いが逸れた。

 命旦夕に迫ったその瞬間、斐剛が背後の殺気を感じ取りさっと振り向く。東巌子が薄紗の裾を翻して飛びかかって来ていた。もはや白煙は纏っていないが、繰り出した杖先には強烈な内力が籠っている。

「いやぁぁぁぁぁぁッ!」

 下段の横薙ぎ。斐剛は即座に手を引いてこれを受け止めたが、直後苦痛に顔を歪める。剣を持つ手が裂けて血が流れ出る。これに気が逸れた瞬間、辛悟の掌打が脇腹にドスンと直撃した。斐剛は咄嗟に飛び退いて衝撃を殺したが、五臓六腑にいくばくかの内傷を負ったことは間違いない。

 ぐっと身を折って三歩よろめいた斐剛へ辛悟の碁石が襲い掛かる。立て続けに五つ。四つは弾き飛ばされたが、最後の一つがビシッと右大腿に喰い込む。威力が十分に籠っておらず肉を穿つほどではなかったが、かなりの激痛であるのは間違いない。そこへ怯む暇も与えられずに東巌子の猛攻が襲い掛かる。

「くっ――!」

 斐剛は痛む脚を無理やりに振り上げ、渾身の飛び蹴りを東巌子に叩き込んだ。防御を捨てて攻めていた東巌子はまともに喰らって吹っ飛んだが、その身に宿った強大な内力が本人の意思とは関係なく斐剛に反動を与える。蹴り足の骨髄にまで浸透するような激痛が斐剛を襲う。蹴った威力がそのまま自身に跳ね返って来たのだ。力加減を調節していなければ折れてしまっていただろう。斐剛はその反動を借りて塀の上へと飛び上がった。

 斐剛の顔面は屈辱にまみれていた。無理もない。たかだか一着の衣服を求めただけが、これほどの強敵に出くわすとは思いもしない。しかも己は白銀白虎幇幇主の身であったのに、これだけの手傷を負わされたとあっては面目丸潰れ。そして今、無手のままにこの場を退散しようとしている。

 何か言いたげに口を開こうとするが、もはや何を言っても負け犬の遠吠えである。そのまま斐剛は身を翻して姿を消した。いずれ必ず殺してやるぞと、憤怒の視線を残しながら。

「待て……っ!」

 東巌子がその背を追おうとする。が、その肩を掴んで引き留めたのは辛悟だ。頭を振って負う必要はないと伝える。確かにここで無理に追う必要はない。今回追い払うことができたのは東巌子が予期せず上乗の内功を手に入れ、斐剛がそれに面食らっただけのこと。今落ち着いて思い返すに、斐剛は技も内力も申し分ない実力者、一方の東巌子は内力に頼って技も何もなく攻めかかったようなもの。斐剛が冷静になって対抗したなら今回のようにはいくまい。

「行こう。奴が戻って来る前に」

「ええ。でも……」

 東巌子の視線が程瑛、そして郭翰へ向く。辛悟もその視線を追って、ふと程瑛で視線を止めた。

「……あんた、前に会ったな。白髪の娘を知らないかと訊いたら、知らんと答えたはずだが」

 程瑛はびくっと身を震わせた。一年前、辛悟を欺いたのは確かに程瑛だ。弁解のしようなど無い。しかし辛悟もそれ以上追及することはなかった。なにはともあれ東巌子とはまた再会できたのだ。

「織女様、もう行ってしまわれるのですね」

 そう発したのは壁に手を突きながら立ち上がった郭翰。今まで意識朦朧としていたが、ようやく気が付いたのだ。程瑛が慌てて駆け寄り肩を貸す。顔面を手酷く殴られた郭翰は頬も目元も腫れあがってとても痛々しい姿だった。しかし本人は気に留める様子もなく、東巌子ににっこりと微笑みかけた。

「さて、その羽衣は気に入っていただけましたかな?」

 夕日を浴びて動けなくなった東巌子に、郭翰は完成間際の羽衣を被せたのだ。東巌子はついと腕を上げてみて、そして思わず苦笑を漏らした。左袖口の刺繍は未完成、針もぶら下がっていれば刺繍枠も嵌められたままだ。戦闘の最中は気にもしていなかったが、いま改めて見ればなんとも不格好である。

 郭翰は床に落ちていた鋏を手に取ると、おぼつかない足取りで東巌子の前に進み出た。失礼、と言って刺繍糸を切り、枠を外す。

 これにて郭翰の最高傑作、天の羽衣は真の完成を迎えたのである。その場にいた誰もが放心するように息を吐いた。

「織女様……やはり天女だ」

「ええ、本当に天女様だわ」

「よくわからんが、確かに天女だな」

 郭翰、程瑛のみならず、隣の辛悟までもが思わずそのように漏らす。この一年間ずっと織女だ天女だと言われ続けてきた東巌子だったが、ここにきて急に恥ずかしくなり頬を朱に染めるや俯いてしまった。こつんと肘で辛悟の脇腹を突く。いてっ、と漏らす辛悟。

「程瑛、部屋の引き出しに包みがある。持ってきてくれないか」

 郭翰から言われたとおりに程瑛が包みを持ってくる。郭翰はそれを東巌子に渡す。受け取ってみると大きさはあるが重さはない。それで何となく中身に察しがついた。

「お気に召した服を包んでおきました。遠からずこの日が来ることはわかっていましたから。しかし、まさか羽衣完成のその日に牽牛様がお迎えに参られるとは」

 東巌子は何も言えなかった。そうだ。いつかこの日は訪れるのだ。人と人とが出会ったからには、必ず別れの時が来る。元より点穴が解けたなら、あるいは辛悟が迎えに来てくれたなら、東巌子は直ちに郭家を離れる心づもりをしていた。しかし今、その時になって、後ろ髪を引かれる思いが残る。この一年間、悪い日々ではなかった。郭翰と程瑛と、三人で同じ屋根の下で暮らすのは楽しかった。それでも、やっぱり――。

 視線が辛悟を向く。

(私はやっぱり、この人と一緒に旅がしたい)

 その思いは変わらない。だから、ここでお別れだ。東巌子はさっと身を翻し塀の上に飛び上がる。

「またいつか、会いに来るわ」

 さようならは言わない。言ってしまえば、もう二度と会えなくなる気がするから。それはとても寂しいことだから。だから、さようならなんて言わない。これは一時の別れ、次に出会う日までの、ほんの短いお別れだ。

「――あ、待って!」

 それなのに、郭翰はこの土壇場で東巌子を引き留めた。ふらつく足取りで部屋に取って返すと、長持を一つ引き摺って戻ってきた。

「せっかくだから、これも持っていきませんか!?」

「兄さん、こんな時に!」

 郭翰が長持から取り出したのは、いつぞや程瑛を激怒させたあのいかがわしさ溢れる衣装の数々だ。東巌子はそれを横目に入れつつ、変わらないなぁ、と漏らした。

 東巌子が去り、辛悟もそれに続いて姿を消した。既に夜の闇は深くなっており、後姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 行ってしまったわね、と程瑛が言えば、そうだね、と郭翰が返す。二人はしばらく東巌子が消えた方角を見やり、呆然と立ち尽くしていた。

 程瑛にはわかっていた。郭翰が最後にふざけたのは照れ隠しだ。現に今、彼の顔には哀愁が漂っている。この世で一番の羽衣をと己を掻き立てた相手は、今あっさりと目の前から姿を消した。まるで火の消えた蝋燭だ、と程瑛は思い浮かべ、そして息苦しさを覚えた。郭翰はまた、あの日のように憔悴してしまうのではないか? 目標を見失い、何も手に付かなくなって痩せ細ってしまうのでは?

「それじゃあ、私は帰るわ。兄さんも早く安んだ方が良い」

 だと言うのに、口から出てきた言葉はそんな心無い言葉だった。本当は傍にいてやりたいと思う。だが織女様はもういない。程瑛が郭家に留まる理由はなくなってしまったのだ。これから自分は、どうやって彼を支えてやれば良いのだろう? 程瑛にはそれがわからなかった。

 だから、郭翰の次の言葉は意外だった。

「だめだ。瑛妹には次の衣装づくりの手伝いをしてもらわなくちゃ」

 目を丸くする程瑛。次の衣装づくり? もう次が決まっているのか? それに、なぜ自分の手伝いが必要なのだろう?

 すると郭翰は程瑛に顔を向け、にっこりと笑って見せる。

「次は瑛妹のための衣装を作る。君がもっと淑やかになれるような服を、ね」

 それを聞いて程瑛はむっとする。自分が淑やかさにかけることは自覚しているが、それをずけずけと言われれば怒って当然だ。

「なによっ、私はどうせ荒っぽい女だわ。兄さんの作った服なんかでそうそう気性が変わったりするもんですか」

「そうなんだよなぁ。常々あれだけ服をあげてもちっとも淑やかになってくれないんだもの。でもあれは瑛妹じゃなくて、僕の腕が悪かったからだ。……うん、きっとそうだ。でも今は違うぞ。あの羽衣を作り上げた僕になら、瑛妹を変えられる服がきっと作れる気がする。今はそんな気分なんだ」

「え?」

 確かに郭翰は幾度となく程瑛に服をくれた。それこそ余り物だと言って何枚も。程瑛もせっかくだからと受け取っていたし、現に今着ている物も郭翰が作ったものだ。だが今言われてようやく思い至る。ただの余り物にしては、いつもいつも自分の体形にぴったりだ。それに郭翰は着せたい相手が定まらなければ服を作れないはず……。

(もしかして、もしかして、最初から全部私のために作っていたの――?)

 だとすれば、もしもそうだとするならば、たかだか一枚の羽衣を贈られただけの相手など羨望の的になどならない。

 あわあわと口だけを動かして言葉も出ない程瑛。それに気づいているのかいないのか、郭翰は一人でうんうんと頷いている。

「これはきっと難儀するぞ。それこそ、織女様の羽衣よりも難しいかもしれない。だから瑛妹にはいつでも一緒に居てもらわなくちゃ。――僕とずっと、一緒に暮らさないか?」

 郭翰は間が抜けた男だが莫迦ではない。仮にも役人の位にあるのだ。そんな男が今の言葉に含まれる意味に気づかぬわけがない。郭翰は確かに、程瑛に一緒に住もうと、夫婦になろうと持ち掛けたのだ。

 程瑛はやはり何も言えなかった。顔を真っ赤にして、しかし怒るわけでも嫌がるわけでもなく、ただただ顔を伏せて黙り込んでいた。横目で郭翰を見やれば、彼は視線を天上の星々に向けている。

 良いわよ、と程瑛は自身でも気づかぬうちに発していた。

「良いわ、一緒に暮らしてあげる。あの乱暴者がまた戻って来るかもしれないから、程家で一緒に住まわせてあげる。だけど、きっとそんな衣装は一生かかっても完成しない……ううん、させたげないんだから」

 程瑛もまた星空を見上げた。もうすぐ七姐誕たなばた、天上では本物の牽牛織女が逢瀬を交わす。ならば少しぐらい、地上の二人が一足先に結ばれても良いではないか。

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