第十一節 織女の羽衣

 成都を離れしばらく走ったところで東巌子と辛悟は歩調を緩めた。走りながら話すのは内息が乱れやすいものだが、東巌子はそんな様子など少しも見せずにこれまでの経緯を話し終わっている。

「なるほど、そんなことがあったのか。それであの二人は東兄を織女と」

 対する辛悟の息は少し乱れている。こちらは話を聞く一方だったが、東巌子の進みが思いの外速いので追いつくために無理をしたのだ。これは辛悟の内功が劣っているからではない。東巌子の内功がすば抜けているためだ。

「それで、辛悟は今までどこに行っていたのよ? 私を一年も放ったらかしにして」

 別に捨て置かれたわけではないと知りつつ、意地悪をしてそう問いかける。すると辛悟は申し訳なさそうに頭を掻き、

「あの日、路銀を稼ごうと思って賭け囲碁に行っていたんだ。だがさすがは成都、中々強い奴がいて、勝負が着いた頃には夜になってしまった。それで一晩呑み明かして、朝になって宿に戻れば東兄が居ない。しかも荷物を置いたまま、まるで誘拐されたみたいに。本当に心配したんだぞ?」

 そう言われると東巌子もバツが悪くなる。辛悟は背に掛けていた二つの包みを東巌子に寄こす。七絃琴と変装道具の入った背嚢だ。辛悟はこれを持って一年もの間、東巌子を探し続けていたのだ。

「四方八方を探して見つからなかったから、もしかしたらとまた戻って来たんだ。あの近くで東兄の叫び声を聞かなければまた通り過ぎるところだった」

 東巌子は何も言えずに俯いた。辛悟はずっと自分を探してくれていた。こちらは勝手に何も言わずに姿を消したのだ。元より捨て置かれて当たり前だ。それなのに辛悟は探し出してくれた。一緒に居てくれると、かつての約束を守ってくれたのだ。

 東巌子はふと立ち止まると、ややあってから振り向いた。

「辛悟、お願い。私をって。私はこの一年間、必ずあなたが迎えに来てくれると信じていた。でも一度だけ、あなたを疑った。私のことなどどうでも良くなってしまったのだと、私を置いて行ってしまったのだと疑った。今あなたにぶってもらわなきゃ、あなたに合わせる顔がないわ」

 辛悟はぴくりと眉を動かしたが、何も言うことなく東巌子の前に歩み寄った。そして右手を振り上げ、ぺちりと軽く東巌子の頬を撫でる。そして今度は自分の頭を突き出し、

「東兄、俺を殴れ。俺もこの一年間、ただ一度だけ東兄を疑った。俺を捨ててどこかへ行ってしまったのかと。東兄に殴られなければ、東兄と呼ぶ資格はない」

 そんなことを言う。東巌子は頷き、右手を振り上げ――全力を込めて振り抜いた。世に類稀な内功を手に入れた東巌子が、その充溢した内力で以て腕を振り抜いたのだ。パァン! 爆ぜた音が闇夜に響き渡り、辛悟の体は回転しながら吹き飛び道端のかやの茂みに突っ込んだ。すかさず東巌子も茂みに飛び込み、仰向けに倒れたまま痛みに悶える辛悟を見つけて腹に跨った。

「い、痛いじゃないか」

「あなたが殴れと言ったから殴ったのよ」

 辛悟の張られた頬はすでに真っ赤に腫れ上がっている。東巌子がまたさっと手を振り上げればびくりと身構える。まさか腹に跨ったのは思う存分殴るためか!? 辛悟の顔が引き攣る。だが東巌子はくすっと笑って手を伸べ、その腫れた頬に触れる。すると暖かい気が流れ込み、辛悟はたちまち痛みを忘れた。

「……東兄、泣いているのか?」

 辛悟が訝って問うのへ、東巌子は頭を振って否定した。そうは言っても、目元に涙が浮かんでいるのだ。誤魔化せるものではない。

「辛悟がいないだけで、私がどれだけ不安だったかわかる? もう二度と会えないのかと思った私の哀しみがわかる?」

 東巌子は幼い時分に師父を失った。この世でたった一人自分が知る人が、その日を境に居なくなってしまった。市井に降りて誰かに会っても、本当の自分を知る人はいない。東巌子は常に一人だった。独りぼっちだった。でも、それで良いと思っていた。また別れるのは辛いから。また失うのは苦しいから。

 頷く辛悟。

「わかるさ。俺だって同じ気持ちだった。だから、こんなにも嬉しいんだ」

 別離の苦しみは平等ではない。ずっと一緒に居たいと願う相手から引き離されることが最も苦痛だ。天上の牽牛織女もそれは同じだろう。彼らは年に一度しか会えないが、こちらはこれからずっと一緒だ。彼らに比べればずっと運が良い。

 東巌子はさっと両手を広げて見せた。さらりと薄紗が肌を滑る。

「どう? 似合ってる?」

 人を天女にするが如き羽衣。それを纏った東巌子の姿はこの世のものとは思えない美しさだ。それを言葉にして伝えるなどできはしない。だから辛悟は、東巌子の腕を取ってぐいと引き寄せた。あん、とその胸の上に倒れ込む東巌子。

 辛悟の手が羽衣を撫でる。その羽衣にはただ一つの縫い目すら存在しなかった。


(了)

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