深更密会

第一節 真夜中の誘い

 窓の間に書簡が挟まっていた。いつの間に挿し挟まれたのか、まったく気づかなかった。この宿に部屋を取り、荷物を運び込ませて以降、阿遥は一歩も部屋を出ていない。最初に入ったときにはもちろんこんな物はなかったし、夕食を摂ったときも、衣服を解いて体を拭き清めたときも、窓に異変はなかったはずなのだ。それがまたどうして、さて寝床に入ろうかというこの頃合いに不意に現れるのか。

 表書きには「袁」と大書してある。何者の仕業かなど元より見当はついていたが、やはり袁夫人か。袁夫人は決して人里に宿を取ることはない。当然のことだ。袁朗――彼女の夫、袁嘯えんしょうはあまりにも目立ちすぎる。あんな巨大な猿の化物が人里に姿を見せたなら、瞬く間に宿の小間使いから主人まで一人残らず逃げてしまう。ゆえに袁夫人はいつでも山中で野宿する。袁夫人自身はそれをむしろ喜んでいた。誰にも夫との時間を邪魔されないから、と。

 そんな袁夫人が招待状を寄越した。何かしらの要件があるからなのだろうが、阿遥にしても袁夫人に色々と問い詰めたいことがある。だからこの誘いは願ってもないことだ。

 書簡の中には地図が一枚入っていた。ここへ来いということだ。阿遥は他の誰にも気づかれないよう、窓から外へ出た。今夜は星が明るい。灯りは不要だ。

 軽功で駆け、地図に沿って進む。街を離れてたどり着いたのは小さな城隍廟だ。その土地の守護神を祀ったものだ。中に光が灯っている。

「遅くにすまなかったわね。でも、私があなたの邪魔をしたのだと思われたくはないから」

 巨猿と袁夫人が正面で二人並んで床に座っていた。その前には山中で拾い集めたらしい果実や野兎を焼いたもの、それからいくつかの酒壺が並んでいた。

「このぐらいの時間にならないと、私が逗留する宿へ近づくのも大変だったでしょう。あまり明るいうちに動くと見つかって大騒ぎになる。お気になさらず」

 袁夫人が薦めた円座を受け取り、阿遥は二人の正面に腰を下ろした。

「袁姉様が仰っているのは、あの娘……月圓げつえんとかいう女についてですね?」

 袁夫人はこくりと頷いた。

 阿遥は玄冥幇会宗主の命を受け、壬龍鏢局総鏢頭のじん克秀こくしゅうとともに、李白の所有する玄鉄剣を奪うべく策を弄した。その甲斐あって李白らを追い詰めたは良いものの、口封じに殺そうとしたところで邪魔が入った。阿遥の見知らぬ女が突如場に割り入り、壬克秀を懐柔したのだ。壬克秀は阿遥の言葉を一切聞かなくなり、李白を始末し損ねてしまった。

「あの娘は李月圓。紅衣鏢局総鏢頭李客の娘にして、李白の妹よ」

「それは壬克秀の愚か者から聞きました。あの愚図、女一人のために私がお膳立てした策をムダにして」

「あら、女一人のために権謀術策に向かって啖呵を切るなんて、なかなかできないことよ? 愚図なんかじゃないわ」

 じろりと阿遥は袁夫人を睨みつけた。もちろん、袁夫人はわざと阿遥を怒らせるようなことを言っているのだ。わざわざ乗っかってやる阿遥ではない。

「あの女をあの場に連れて来たのは、袁姉様なのでしょう? どうしてわざわざあの場であんな真似を」

「それよ、それ。私があなたに弁明したかったのはそれなのよ」

 杯に酒壺から酒を注ぎ、阿遥に差し出す。阿遥はそれを受け取るや一息で飲み干した。

「弁明の余地があるとでも? あそこであの女が横槍を入れさえしなければ、万事上手く片付いたのに。若様やらあの鳥の糞やらよくわからない道士やら、みんなまとめて消し炭にしてやれたというのに! またとない機会だったのよ!」

「次にまた殺してあげる楽しみが増えたじゃないの」

 苛立たしげに阿遥は酒杯を差し出し、袁夫人はわかったようにそれをまた一杯に満たした。阿遥はまたそれを一気に飲み干す。機嫌が悪いと阿遥はいつもこれだ。大した量をいけるわけでもないのに、見境なくぐいぐい呑み続ける。そうしてやがて酔い潰れ、翌朝には苛立ちの原因まで含めて綺麗さっぱり忘れている。それが阿遥のいつもの気晴らしのやり方だった。袁夫人もそれを分かっていて、今夜こうして酒宴に誘ったのだ。

「それは、そうだけど。鳥の糞野郎はともかく、若様はそうもいかないわ。今回は対局の相手が私だと知らなかったから策に嵌っただけ。二局目がどう転ぶかは誰にもわからない」

「それがおもしろいのではなくて?」

 阿遥の頬がぷくっと膨れる。

「袁姉様は私を言いくるめたいのですか? これは弁明とは言いません!」

 袁夫人が阿遥の仕事に不要なちょっかいをかけた、それ自体は変わらぬ事実なのだ。袁夫人はぺろりと舌を出す。

「さすがは権謀術策、私なんかの口車には乗らないのね」

 もとより乗せる気などなかったくせに、との言葉は飲み込んだ。

「あの月圓という娘、あなたたちをこっそり尾行つけていたのよ」

 唐突に袁夫人がそんなことを言った。阿遥の酒杯を運ぼうとした手が止まる。

「あの娘が街道を北上しているのを見つけたの。一緒にもう一人、十歳少しの女の子を連れていたわね。私はあの娘の兄に用があったから、後を追っていたの。あなたは気付かなかったでしょうけれど、ある晩、あの娘はあなたたちと同じ宿に泊まったわ。あなたの連れの殿方、下男を叱りつけていたわね?」

「壬克秀、壬龍鏢局の総鏢頭よ」

 阿遥は思い出していた。宗主の命を受けて壬克秀とともに出立して間もなく、あの男は宿の提供した酒が安物だと言って難癖をつけた。あの夜のことだ。

「あのとき、娘はその壬公子を隠れて見ていたわ。翌朝になってあなたたちが宿を引き払うと、紅衣鏢局の分所へ向かった。連れの女の子を預けていたみたい」

 そこで袁夫人はクスッと漏らした。何やら滑稽なことを思い出して笑いがこみ上げたらしい。

「あの女の子、相当な厄介者ね。めちゃくちゃに暴れて、あの鉄拐熊てっかいゆう鏢頭さえも手こずっていたわ」

「袁姉様、話が逸れているわ」

 あら失礼、袁夫人は咳払いを一つ、また阿遥の酒杯を満たす。

「身軽になった娘はこっそりあなたたちの後を尾行した。確か、都安堰へ向かっていたわね? その途中、あなたたちは李白を見つけた」

「見ていたのですか」

「こっそりとね。壬龍鏢局が李白を追い回し始めたのを見て、あの娘は飛び出そうとした。そこを袁郎が捕まえたの」

 グゥ、と巨猿が呻いた。袁夫人が自身について口にしたのを聴き取ったらしい。袁夫人は慈しむように巨猿の手を撫でた。

「だから、ね? 私と袁郎はあなたたちのお役目を陰ながら手助けしてあげたの。それを汲んではくれないかしら?」

「それならば最後までいましめを解かなければよかったものを、なぜ?」

「だってそれは……ふふ」

 とても楽しいことを思い出した、そんな様子で袁夫人は口元を押さえた。思い出し笑いしているのだ。

「あの娘、月圓ったら、李白が今にも焼け死のうとしたら、それこそ泣いて懇願したのよ。我が身はどうなっても構わないからどうか兄を救ってほしい、この場は私を行かせてほしい。そうすればいつでもこの首を捻り潰しても構わないから、と」

「それを袁姉様は聞き入れたのですか? どうして?」

「あら。だって、ねぇ?」

 袁夫人は阿遥を手招く。この場には二人の他に一匹の巨猿がいるだけだというのに、何を耳打ちする必要があるのか。阿遥は訝りながら身を寄せ、袁夫人はその耳元にひそひそと囁いた。瞬間、阿遥の表情が驚愕、そして侮蔑の色へと変わる。

「ろくでもない兄には、ろくでもない妹がいるのね。李家というのは畜生の家系に違いないわ」

「口が過ぎるわよ。それでは皇帝さえも畜生と言っているようなものだわ」

 唐王朝の家系は李姓なのである。しかし阿遥はその指摘もふんと鼻で笑い飛ばした。

「皇帝が何者であろうと、私たちに関係があって? 私たちを導いてくださるのはこの世でたった一人、宗主様だけなのだから」

「まったくその通りだ」

 予想外の声が割り込んだ。男とも女ともつかず、老人とも若者ともつかないくぐもった声。扉を開いて二人が入ってきた。

「この世の帝王たる人物は、宗主様をいて他にない」

 その声の主は黒の官服に身を包み、舞台役者のような仮面と髭を身に着けていた。

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