第十一節 警悪刀

 谷の下流に積み上げられた障壁を打ち崩すと、噴き出す炎とともに三人が駆け出した。

「林哥哥にいさん!」

 プスプスと髪や服から煙を発しながら、元林宗はその声を聞いてさっと振り返った。この世に己を哥哥と呼ぶのは彼女以外にあり得ない。

「蘭妹! 無事だったのか!」

 飛びつく体を受け止める。突然のことだったので受けきれず、そのまま二人諸共地面に折り重なって倒れた。すぐ近くにいた官兵が助け起こそうと動きかけたが、蘭香がぎゅっと元林宗を抱きしめ、元林宗もまた蘭香を抱き返すのを見て素知らぬ振りをする。

「鬼子母神が蘭妹を殺したと言うから心配したよ。もう会えないかと思った」

 元林宗が囁けば、蘭香はたちまち元林宗の胸に顔を埋めてわっと泣き出した。

「林哥哥は優しすぎる! 私は林哥哥との約束を守れなかった! あの子を、玉環を連れ去られてしまった!」

 確かに蘭香は約束を果たせなかった。鬼子母神との間に何があったのかは知らない。だがそれでも、元林宗にとっての一番は蘭香の無事だった。責めるよりもまずそちらに安堵する。

「蘭妹が無事ならそれでいいんだ。あの子は……玉環は必ず取り戻す」

 元林宗が視線だけを転じて周囲に意識を向けると、そちらでは辛悟と黄衣の老人東巌子とが話し合っていた。

「多勢に無勢でな。あの蘭香という娘、かなりの腕だが随分危うい所まで追い詰められていた。わしは怪我で動けず、足手まといになるばかり……」

「それはいいんだ、東兄。無事で何よりだった。柯兄は?」

「上じゃ。あやつ、鬼子母神の愛息子に随分とご執心のようじゃからな」

 東巌子が話すには、蘭香と合流して楊官府を目指していたところ、鬼子母神範琳の襲撃を受けた。しかも範琳は風児をはじめとした手下たちを引き連れており、手負いの東巌子では充分に応戦できず、柯高と蘭香は数に押されてとうとう玉環を奪われてしまった。すぐにも取り返しに行こうとする蘭香を説得し、一行はまず楊府へ向かった。そこで玉環の父、楊玄琰げんえんに状況を話し、ありったけの人員を出してもらったのだ。一に玉環を救出するため、二に辛悟らを探し出すために。

「玉環が二度も誘拐されたと聞き、楊大人は大層心配しておったぞ。自ら警悪刀けいあくとうを執り愛娘に手出しする者を斬り捨てようと息巻く始末じゃ」

「警悪刀?」

 辛悟が首を傾げると、東巌子もまた首を傾げて、それから「あぁ」と納得する。

「お前は知らなんだか。わしは玉環と遊んでおるときにあの子から聞いたのじゃよ。楊家には不思議な刀があり、その名を警悪刀と言うと。悪人が近寄ればひとりでに鳴いて報せるのだと。その昔、楊玄琰が盗賊に襲われそうになった際にも鳴いたとか。ほれ、張看星を相手に振りかざしておったろうが」

「――なんだと」

 辛悟は思わず言葉を失った。瞬間的に、嫌な考えが脳裡に浮かんだのだ。

「東兄、覚えているか? 以前に岷山から益州へ向かう途中で出会った娘のことを。昔、俺の使用人をしていた阿遥という娘を」

「覚えておるも何も、その娘ならそれこそ三日ほど前に会ったぞ。ちょうど玉環と桃姑娘と鉢合わせた直後じゃったな。どこへ行くのか、若様はどうしておるのかと訊くものじゃから、少々話し込んでしまったな」

「もしや、鬼子母神の話もしなかったか? 玉環が楊玄琰殿の娘であることは? 俺たちが奇襲を受けて、別の道で楊府へ戻ろうとしていることは?」

 ぴく、と東巌子の眉が動いた。

「それがわかるということは、あれが健気な娘であることをお主も知っておるということじゃな。そうじゃ、あの娘はお主のことを随分と気にかけておったぞ。大事はないから安心せよと言っておいたがな。小環については桃姑娘が自慢げに話しておったが」

 阿遥は楊玉環を知っていた。あの子が辛悟たちにとって絶対に見過ごすことのできない交渉材料となり得ると知っていた。なぜ知っていたのか、それが疑問だった。だが答えは簡単だった。たった今、すべて明らかになった。

 東巌子を責めることはできない。阿遥が玄冥幇会の「権謀術策」であると知ったのは辛悟にとってもつい先刻のことなのだ。身内を案じる者がいればつい心を許してしまうのが人情だ。

「東兄、もう一つ訊きたい。鬼子母神が玉環を奪い去ったとき、奴らは東兄たちを殺そうとはしなかったのか?」

「それはまるで死んでいてくれた方が良かったかのようじゃな? ……いや、奴らは玉環に点穴するとさっさと引き上げて行きおった。蘭妹も脚に鞭を喰らって追えなんだ。なぜかわしの杖を奪って行きおったが……そういえばなぜそれをお主が持っておるのじゃ?」

 辛悟はその問いに答えなかった。頭の中で次々と物事が繋がっていく。

 楊玉環の誘拐、李白の剣、壬龍鏢局と李家の怨恨、利剣宝刀を蒐集する玄冥幇会、そして警悪刀。

「鬼子母神はわざと東兄たちを逃がしたんだ。楊府へ行かせるために、そして兵を出させるために。楊府をもぬけの殻にするために」

「――なに?」

 東巌子は訝り、そしてはっと目を見開いた。

「警悪刀か!」

 辛悟はすぐさま官兵の将に事の次第を話し、蜀州楊府へと急行した。しかし、辛悟の推測は不幸にも的中してしまっていた。

 楊玄琰は殺害され、警悪刀は持ち去られてしまっていたのである。


(了)


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しばらく休載いたします。詳しくは近況ノートをご覧ください。

https://kakuyomu.jp/users/Kogetsu/news/1177354054887569780

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