第十節 懇願

 火矢が放たれればたちまち藁玉に燃え移り、この谷底は地獄の窯と化すだろう。そうなれば李白ら三人、どうあっても生き延びることはできまい。この断崖を駆け登ることもできるかもしれないが、壬克秀はそれを許さないだろう。取り囲んだ者たち全員、李白らが登って来ようものなら矢を射かけてくるに違いない。当たらずとも避ければ失速し、断崖は登り切れない。

「さーて辛悟よ。この局面、どう切り抜ける?」

「切り抜けるも何も、これは詰みだ」

「おいこら辛悟、貴様は短足だけでは飽き足らずにボケナスにまでなろうとするかっ!」

「どちらにもなった覚えはねーよ!」

「師兄! 辛殿! ふざけている場合ではありませんよ!」

 元林宗は少しでも藁玉を遠ざけようと蹴りを放つ。だが直径十歩ほどの空間を作るのが精々であった。

 壬克秀が第一の火矢を撃ち込む。他の者たちも続いて次々に火を放った。よく乾燥した藁玉はたちまちぼうっと燃え上がり黒煙を発する。元林宗らは瞬く間に炎に包まれた。

「岩陰に戻れ! 火も煙も上に向かう。逃れる道があるならあそこしかない」

 辛悟の指示で三人揃って岩陰の窪みへと駆け戻る。なるべく奥へと身を押し込み、土を掻き出して少しでも煙が流れ込まないよう隙間を埋める。そうこうしているうちに黒煙が視界を覆い、やがて何も見えなくなった。

 その直前、黒煙の中を何者かが飛び越えるのを辛悟は見た。

(あれは……?)

 それが誰であるのか、辛悟にはわからなかった。気を取られた一瞬で黒煙を吸い込んでしまい、激しく咳き込みながらその場に伏せた。後はもう天命に従うだけだ。

 その何者かは崖の上を軽功で飛び越え、一直線に壬克秀へと迫った。もしも崖上で弓矢を構えていたのが鏢師であったなら、このようなヘマはしなかった。まったくの予想外であったとしても茫然としてなにも動けないなどということにはならなかった。しかし彼らは鏢師ではなく武芸者でもない。ただ金で集められただけの素人だ。壬克秀に飛び掛かるその人物を咄嗟に阻むことなどできるはずもなかった。

 壬克秀が奇襲によって斃されなかったのは、単にその人物に殺意がなかっただけに過ぎない。

「壬様、待って! 兄を殺さないで!」

 壬克秀はすぐには相手が何者かわからなかった。一拍の後にようやくそれが李白の妹、李月圓であると気づいた。しかし妙なことに衣装が乱れ、ところどころ破けた部分には血も付いている。手首には縄が巻き付き、直前まで何者かに拘束されていたのだとわかった。

「李姑娘、これは一体どうしたことだ?」

 壬克秀の問いに月圓は答えない。その両足に抱き着き必死の形相だ。

「兄を助けてください。殺さないで!」

 壬克秀が李月圓を見初めたのは数年前のこと。一目惚れだった。彼女は家を出て久しい兄の行方を捜しているのだと言っていた。壬克秀はそのとき約定に従い紅衣鏢局の姿をしていたため、月圓は壬克秀を身内と思って親しく話しかけてくれたのだ。李家に求婚したのも鏢局間の権力争いだけが目的ではない。本当に彼は月圓が欲しかったのだ。

 その彼女が今、自らの足元で懇願している。兄のために己にしがみついている。こんな彼女の姿を壬克秀は見たくなかった。

「何者ですか、その薄汚い女は。誰だか知りませんが早く口封じに殺してしまいなさい」

 阿遥は命じるだけで自ら動こうとはしない。確かにこの所業を見られたからには何人たりとも生かすわけには行かない。幸いにも月圓は壬克秀に自ら組み付いて離れようとしない。白龍杖を執って振り下ろせばたちまち頭蓋を砕くことができる。

 壬克秀は白龍杖を掴んだ。しかし引き抜けない。そうこうしている内に壬龍鏢師が一人、慌てて駆けてきた。

「壬鏢頭、官軍がすぐそこに! この煙を怪しまれたようです。これは一体何ごとなのですか!」

 ちっ、と阿遥は舌打ちを漏らす。

 阿遥がこの策を実行するにあたり、唯一懸念していたのがこの状況だ。この地はあまりにも蜀州の街に近い。範琳が楊玉環を誘拐したことで周囲には何人もの捜索隊が出ている。ゆえに李白らを追い込み始末しているこの状況を発見される、それだけは避けなければならなかった。そのためにも罠に獲物がかかったならば、即座にすべてを終わらせなければならなかった。だが、まさかこんな最悪の時に官兵どもに見つかるとは。

「早く火矢を打ち込んで! さっさと奴らを焼き殺して逃げるのよ!」

「やめて! それはやめて!」

 再び月圓が血相を変えて縋る。阿遥がそれに冷たい視線を返すと、月圓はまた壬克秀に向き直る。

「壬様、どうか兄を救って! もしもあなたが兄を殺すなら、私もここで死にます。その白龍杖で私を打ち殺して! でももしも兄を助けてくれるなら、この身をあなたに捧げましょう」

「くだらねー命乞いで邪魔するんじゃねーよ売女ばいたが! 壬鏢頭、その女を早く殺しなさい!」

「ダメだ、待て!」

 再び火矢を番えた弓手たちへ壬克秀が待てをかけた。阿遥の表情が変わる。ぐっと眉間にしわを寄せまたも舌打ち。

「こんな土壇場でビビってんのかテメーは! もう後戻りなんてできないのに、宗主様に不利になるようなことはこの私が許しません」

「俺はすでに剣を渡した!」

 引き抜いた白龍杖の先端をあろうことか阿遥へ。阿遥の顔に浮かんだのは、驚愕か憤怒か。

「宗主様に歯向かうのですか。壬龍鏢局は我ら玄冥幇会と誼を結びたかったのではないのですか」

「勘違いするな。俺が媚びを売りたいのは貴様じゃねぇ。宗主様だ。俺はその宗主様への献上品をお前に納めたんだ。もうお前の指図に従う義理はない! これ以上の指図をしたけりゃ宗主を連れて来な!」

「壬様!」

 月圓は涙を流し、その場に這いつくばって壬克秀に頭を下げた。炎はまだ消せないほどではない。官軍とやらが駆けつければ谷底の三人を救出することも可能だろう。

 阿遥は何も言い返さなかった。確かにこちらは剣を受け取った。範琳もあの小娘を連れて意気揚々と立ち去った。こちらの目的は果たしたし、万一口封じが未遂に終わり事が露見したとしても、実行犯は壬克秀および壬龍鏢局だ。だからこそこの場でも壬克秀を矢面に立たせたのだ。

(こんなバカげた押し問答を続けて逃げ遅れてはいけない)

「勝手になさい!」

 阿遥は剣を手に身を翻し、弓手たちを引き連れて山中へと逃げ込む。彼らは阿遥の金で雇われており、この周辺の地理に詳しい。置いて行かれるわけには行かない。壬克秀は直ちに鏢師へ向けて伝令を発した。

「全員、即刻撤退だ! 山中を抜けて官軍を撒く」

 さすがに統率された鏢師たちの動きは素人どもの比ではない。元々撤収の準備は整っていたこともあり、壬龍鏢局もまた迅速に山中へと身を投じた。壬克秀は月圓を引き連れて行き、あとはただもうもうと黒煙を上げる谷だけが残った。

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