第九節 下劣な交渉
崖の上に二つの人影が差した。やや逆光となって見えづらい。一方は男のようだが、もう一つは極端に小さい。子供の影だ。
様子がおかしいとは初めから感じていた。この天然の監獄に誘い入れたのにも関わらず、先ほどから一向に攻めてくる様子がない。だがまさか、あのような交渉材料を持ち出してくるとは辛悟も思い至らなかった。そもそもなぜ、奴らがあの子のことを把握しているのかすら謎だった。その子供は楊玉環だったのだ。
「この子供を助けたくば、李白よ、その剣を渡せ」
「なんとこれは、壬龍鏢局はとうとう誘拐強盗をするほどまでに困窮堕落してしまったのか!」
楊玉環は両腕を背中にきつく縛られ、猿轡を噛まされぐったりとしていた。意識があるのかどうかもよくわからない。崖の上にそんな楊玉環を引き連れて姿を現した壬克秀に対し、李白は怯む素振りも見せずに罵倒を浴びせた。しかし相手の要求には直接答えない。要求を呑むにしろ拒むにしろ、李白はそれを遠回しには言わない。はっきりと「わかった」もしくは「くたばれ」と口にする。そうしないのは答えを出せないからだ。
(奴らの狙いは李白の剣だったのか。あの剣が何か特別な品であることは前々から感じてはいたが、余人が欲しがるほどの代物だったとはな。わざわざ人質を用意したのは拒んだ李白が剣を破壊しかねないと踏んでいたからか、あるいは力ずくで奪うことで受ける損害を避けるためか、あるいはその両方か)
状況の変化が更なる情報をもたらす。辛悟はたちどころに今回の追跡と包囲の背景を推測していった。
壬龍鏢局が剣を欲しがっているのだとは思えない。今の江湖で利剣宝刀ばかりを欲しがるのは玄冥幇会を置いて他にあり得ないのだから、壬龍鏢局はその手先となって今回の所業に至ったと考えるべきだ。鏢局は各地の有力者と縁を結びたがるものなのだから。
「李白、あいつを知っているのか? あの者は壬龍鏢局の何だ?」
「あれは壬克秀。今の壬龍鏢局の頭にして脳なしよ」
「脳なしなのか」
「脳なしじゃ」
根拠はよくわからないが、とにかくそうらしい。辛悟はふむと考えを続ける。
(壬龍鏢局は名のある組織、幼子を使って交渉に出るような真似を進んで行うとは思えない。そんな下劣な真似ができるのは玄冥幇会の人間だ。奴らは宝物一つを奪い取るために貯水池に毒を放ち、近隣住民を皆殺しにしたことがある。そんな策を躊躇なく実行できる何者かが背後にいるに違いない)
辛悟とはまた対照的に、そして李白よりも狼狽したのは元林宗だった。
「なぜ玉環がここにいる! それに途中にあったこの髪飾り……あなた、蘭妹に何をしたのですか!」
元林宗は蘭香を信じて玉環を預けた。それなのにここに玉環が囚われているということは、当然ながら蘭香の身に何かが起こったと考えるしかない。
だが壬克秀はそのような問いを投げられるとは思っておらず、また元林宗が何者かも理解できずに逆に狼狽してしまっている。背後にいる誰かに助けを求めるように視線を投げたように見えた。
すかさず辛悟が声を張る。
「壬鏢頭。すべての罪をあなたに被せ、己の欲しいままにしようとする輩の言葉に従ってはなりません。これは壬龍鏢局の威名に瑕を付け、力を削ぐ策略です」
壬克秀はまた目に見えて狼狽している。人質を手中に敵を包囲している利があるにも関わらず、逆に追い詰められているように見えるのは実にあべこべだ。そしてしきりに背後へ視線を向けている。――この状況を作り上げた何者かがそこにいるのだ。
「黙れ、黙れ! 貴様らに用はないのだ。俺は李白にのみ話しているのだ!」
「睦言を交わしたければこんな大衆の面前でなくとも構わんじゃろうに。妓楼でも貸し切った上で良酒をしこたま準備して待っているとでも言えば、わしは喜んで欠席してやるものを」
「行かねーのかよ。いや、行かなくていいが」
うっかりいつもの調子で口を挟んでしまう辛悟。その横から元林宗は居ても立ってもいられなかったようで、とうとう岩陰から飛び出してしまった。
「玉環を放せ! 蘭妹をどうしたのか答えろ!」
弓手が矢を
「生きているのか死んでいるのか、それは今この場において何の意味がありましょう? それよりもまずはご自身の心配をされる方が得策かと」
辛悟と元林宗はそれぞれハッとした。この声は聞き覚えがある。壬克秀と同じく崖上に姿を現したその姿に、方や憎悪、方や驚愕の表情を浮かべた。
「あなたは――!」
「阿遥!」
辛悟と元林宗はまず互いに顔を見合わせた。互いに相手が阿遥を知っているとは思っていなかったのだ。
「お久しぶりです、若様。そして元道長。心配なさらずとも、すぐにあの方の元へ送って差し上げますのでご安心を」
「あれは辛殿の知り合いなのですか」
辛悟は元林宗が憤怒の表情を彼女に向けていることに驚いていたが、元林宗もまた阿遥が辛悟を「若様」と呼んだことで疑念を抱いていた。
「話すと長いから省略するが、昔はそうだったが今は違う」
「あれは悪女です。関わってはなりません」
「知っている」
あっさりと返した辛悟に元林宗は瞠目する。辛悟はまた視線を阿遥へ。
「自陣の内へ内へと相手を誘い込むこの戦法、どこかで見た気がしていた。だがまさかお前とは思わなかったぞ、阿遥。なぜお前がここにいる――などと、もはや訊く必要もあるまい。お前こそが「権謀術策」、玄冥幇会の参謀であったのだな」
「若様は本当に聡いお方。では私がわざわざこの幼子を連れてきた理由も、もう察しておられるのでしょうね?」
ふん、と辛悟は鼻を鳴らした。当然ながら悟っている。ゆえに気に食わないのだと。
「俺たちを殺すつもりなのだな、阿遥? 剣と引き換えにその娘を助けたなら、俺たちにはもう交渉の材料がない。そのためにわざわざ俺たちをここへ誘い込み、閉じ込めたのだな。こちらが交渉不可能な状況を作り出すためだけに。李白の剣を奪うばかりか、奪い返せぬよう禍根を断つために」
「ご明察。若様を見逃して差し上げたいのはやまやまですが、私はもうあのお方にお仕えする身。後顧の憂いを残すわけには参りません」
「あのお方とは、玄冥幇会宗主の
「なぜその名を?」
阿遥の眉がピクリと動いたのを辛悟は見逃さなかった。
「調べたのだ。そしてたどり着いた。今この時まで確証はなかったがな」
口車に乗せられたのだと悟り、阿遥は顔を赤らめた。こんなところで他人の策に嵌まるとは権謀術策の名が廃る。それに宗主は己の名を公にしないよう努めていた。だから阿遥を始め側近の者たちは皆、かの者を宗主と呼ぶのだ。それなのにこんなところでボロを出してしまうとは。
「ご存知ならばなおのこと、死んでいただきます。宗主様はその名が流布されることを望んではいないのです。若様、どうぞこの阿遥を憎んでくださいまし」
阿遥が片手を小さく振ると、手下たちが何か大きな塊を縁まで運んできた。それは一つ一つが身の丈ほどもある藁玉だ。何を始めるつもりなのかそれだけでよくわかる。火を放って焼き殺すつもりなのだ。
「さあ李白、その剣を渡してもらおうか! 剣とこのガキの命とを交――」
「やいやいやいやい、待て待て待て! 黙って聞いておれば勝手なことを!」
割り込む隙を狙っていた壬克秀、ここぞとばかりに割り込んだのに、それも遮られてしまった。割り込んだのはようやく最後に岩陰から姿を現した李白である。
「貴様らわしの剣が欲しいのではないのか! それなのにわしを差し置いて話を進めるとはどういう料簡じゃ!」
噛みついた先は壬克秀ではなく、辛悟にである。襟首を掴んでがくがくと前後に激しく揺り動かす。元林宗は呆気にとられて為す術もない。話を遮られたばかりか放置された壬克秀はたちまち顔面を真っ赤に染める。
「このクズ野郎め! 俺たち親子を愚弄して、ここでもまた俺を弄ぶか!」
「なんじゃ、まだあれを根に持っておったのか。それでわしを殺すのか」
「そうだ! 壬家の屈辱、忘れはせん!」
「わしは忘れたな。根に持つ性分では生きづらいぞ、壬よ」
言いながらも腰から剣を外す。それを見てはっと元林宗は硬直を解いて腕を伸ばし、李白の手を引き留めた。
「師兄、それを奴らに渡してはいけません。江湖の禍となります」
そもそも元林宗は飛鼠が狙う天問牌、すなわち李白の宝剣を誰の手にも渡すまいとしてやって来たのだ。ここでその剣が他者の、それもあの女の手に渡るなど見過ごせるはずがなかった。
しかし李白はからからと笑う。それが一体どうしたことか、と。
「だとしてもじゃ。見よ、あの将来の超絶美人をここで死なせてよいとでも? 人命は百金ですら贖えぬ。ましてやただ一振りの剣などでは」
元林宗はたちまち己を恥じた。そうだ、剣を渡さなければ彼らは玉環を殺す。例えここで剣を奴らに渡し、元林宗らが殺されたとしても、玉環を助けられるならば良いではないか。この抗いようもない状況で、それだけが自分たちにできる行いであるならば。
(この人は
李白は剣を高々と掲げ、壬克秀に見せつけた。
「さあ、剣はここじゃ。欲しければくれてやろう。しかし壬よ。剣を渡して、それで貴様がその娘子を解放する保証はあるのか? 天地神明に誓えるか? この場におる鏢師どもに誓えるか?」
「もちろんだ。俺も壬龍鏢局の鏢旗を背負う身だ。剣を渡せばこの子を解放すると誓おう」
崖上から垂らされた縄に括り付け、剣が引き揚げられて行く。それを受け取った壬克秀はそれを改めるように一度見まわし、それから阿遥に手渡した。
「剣は確かに受け取った。俺はこの娘を解放しよう。それから先は、俺の知ったことではない!」
短刀を振り翳し、玉環を戒めていた縄を絶つ。よろけたところをさっと飛び出した誰かが抱き留めた。元林宗は怒気も露わに叫んだ。玉環を抱き留めたその人物、数日前に見たばかりだ、忘れるはずがない。
「鬼子母神、何をする!」
「壬鏢頭は確かにこの子を手放した。ならば私がこの子を貰って行くだけのこと!」
玉環を抱え上げたのは範琳だ。確かに壬克秀は玉環を解放した。だがそれは彼女の安全を保障したわけではない。横から鬼子母神が現れ強奪するのを阻む義務などないのだ。元林宗の怒りなど馬耳東風とばかり、範琳は高々と笑声を発して身を翻し、玉環ともども姿を隠してしまった。元林宗は次いで壬克秀へと非難の矛先を向ける。
「あなたは鏢局の長なのでしょう? それがこのような行いをするとは、この場にいる仲間の鏢師たちに対して後ろめたくはないのですか! 先ほど誓いを立てたばかりではありませんか!」
「生憎、ここには鏢師などいないのでね。ここにいるのは全員が金で雇った奴ばかりだ。壬龍の鏢師は揃って下山の準備中さ。俺は誰に負い目を感じる必要もない!」
つまり、あの誓いは誰に対しても立てられていなかったということだ。
ケッ、と吐き捨てる辛悟。
「どうせそんなことだろうと思ったさ。それでも今ここで死なせるよりは、生きている方がまだマシと祈るしかない」
「どのみちわしらはこれでお終いじゃしのー!」
嫌味ったらしく李白は壬克秀へ瞼の下を引き下げて見せる。壬克秀はそれを見下し、そして手を振った。崖縁に並べられた藁玉が次々と谷底へと投げ込まれる。谷底はほどなく藁玉で一杯になった。
壬克秀が弓を取る。番えた矢先に火を灯す。後はそれを射込むだけだ。
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