第八節 兵法論議

 蜀の手前で野営すること三日目、壬克秀はもう我慢の限界だった。白龍杖を握り締め、阿遥の使う天幕へ飛び込んだ。

「いつまでこんなことを続けるつもりだ! 数の利はこちらにあるのだ。どうして奴らを探そうともしないのだ!」

「あら、淑女の領域へなんと無粋なこと」

 阿遥はほぼ下着だけの姿だった。着替えの最中だったらしい。壬克秀は先の勢いはどこへやら、とっさに顔を背けてしどろもどろになる。

 ところが阿遥は慌てるでもなく恥じるでもなく、虫が一匹飛び込んできた程度であるかのように動じない。ゆっくりと掛けていた衣装を取って身に着けた。

「智者のおもんぱかりは必ず利害を交う、と言います。その蟷螂カマキリほどの頭でよくお考えになって下さいませ、壬鏢頭。こちらから奴らを探すというのは、すなわち隊を分割するということ。それはすなわち、十を以て其の一を攻むるというもの。数の利はたちまち消え失せます。それとも玄鉄器を有するあちらなど取るに足りない力量だと? 彼らは数こそ少ないものの、その力量は侮り難い。探し出して戦闘を仕掛ければ勝つことは出来ましょうが、代わりにこちらも多少なり兵を損なうことになります」

「それがどうした? 干戈かんかを交えるなら当然のことだ。手の届く場所を玄鉄器を持った低能クズがうろついているのだぞ。それをどうしてじっとしていられる? こちらから仕掛けない理由がどこにある?」

 ハッ、と阿遥は短く息を吐いた。壬克秀は瞠目した。今、俺はこの小娘に嘲笑されたのか?

「やはりあなたは必敗の将ですわ。兵を愛さず使い捨てるような物言い、壬龍鏢師の皆が聞いたならなんと思うことでしょう? それとも、己が配下は死にに逝けと命じて眉一つ動かさずに従う者ばかりと過信されているのでしょうか?」

 それは、と壬克秀は言葉に詰まってしまった。

 壬龍鏢局は壬克秀の祖父の代に始まっている。祖父はその武芸の腕によって地位を築き、父のじん烈華れっかは巧妙な立ち回りで有力者との関係を強固にすることで鏢局を発展させた。では壬克秀は? 壬烈華の引退が急であったために鏢師たちには混乱が広がり、その復帰を望む声がいくつも届けられた。しかし壬烈華は一度決めたことは頑として変えることがない。引退早々に何処へとも知らせることなく隠棲してしまった。

 壬克秀は突然、総鏢頭の役に就かざるを得なくなってしまったのだ。配下の鏢師は壬烈華のためなら火の中水の中を厭わない。しかし壬克秀に対しての忠義は持ち合わせていなかった。今はただ壬烈華への恩義に応えるため、間接的に壬克秀に従っているに過ぎない。そうと言葉に示されなくとも壬克秀はそれを知っていた。そして鏢師の信奉を集めるには彼自身が大仕事を果たし、鏢局の長たる力量を示さなければならないと知っていた。だから近頃勢力を伸ばしている玄冥幇会に接触したのだ。壬烈華引退の一因となった袁夫人が玄冥幇会に属していることは知っていた。知っていてなお、壬克秀にはそれ以外の選択肢がなかったのだ。敵だなんだと気にしている場合ではない。とにかく彼には実績が必要なのだ。

(腕利きの鏢師には俺よりも腕の立つ人間はいくらでもいる。俺が彼らを率いていられるのは親父の威光あってこそだ。無茶を押して損害を得ようものならたちまち信頼を失い、離反を招くだろう)

 それは絶対に避けなければならないことだ。信頼だけが今の壬龍鏢局を保つ最大にして唯一の礎なのだから。

「で、ではあの者たちは? あれは金で雇ったのだろう? 探索に人手を割かないのならば、どうして奴らを雇い入れる必要があった?」

 壬克秀の言う「あの者たち」とは、阿遥がこの数日で招き集めた荒くれ者たちだ。阿遥が李白追跡よりも優先して街へ向かった理由がそれだ。阿遥は各地に潜む玄冥幇会の末端に伝言を残し、その伝手と金で臨時の人手を集めたのだ。彼らは元来この辺りを縄張りにする破落戸ごろつきどもだ。腕っぷしには自信があるらしく、鏢師であることを隠したこちらに随分と尊大な態度を取っている。

「誤解があるようですが、彼らを雇い入れた主たる目的は戦闘要員ではありません。彼らはこの山野を知り尽くしています。李白らはきっと街道を避けて蜀を目指します。ならば必ずこの付近を通るはず。そこへ罠を仕掛けます。彼らを雇ったのは罠を仕掛けるに最良の場所を知るため。腕力を振るってもらうのはそのついでに過ぎません。そもそも壬鏢頭、相手の素性をよく考えてみてくださいませ。あれは鏢師でもなければ兵士でもない、ましてや江湖の任侠者でもないのですよ? 自らの務めに誇りがあるわけでもなく、己の中に信念を抱いているわけでもない。身の危険を感じたなら金よりも命を優先するでしょう。本当に彼らが自らの意のままに命令を聴くでしょうか?」

 壬克秀はぐうの音も出なかった。ようやく彼女が「権謀術策けんぼうじゅっさく」と称される所以を知った気がした。集団を律し策を巡らせ敵を陥れる。彼女には確かにその才能があるようだった。ただ、それを認めることだけはどうしてもできなかった。

「……どうしてお前は、そんなにも軍師の真似事が得意なのだ?」

 気づいた時にはもう頭に浮かんだ疑問が言葉になって出てしまっていた。何を訊いているのだと自ら呆れると同時に、壬克秀はようやく認めた。自分はこの小娘が嫌いなのではなく、ただただ羨ましくて仕方がないのだと。この身には備わっていない才覚をどうしてお前が持っているのかと、それを妬んでいたのだと。

 それなのにこの忌々しい小娘は、そんな壬克秀の心の裡など少しも気にかけたりはしないのだ。

「軍師の真似事など、そんな大それたことではありませんわ。私にとってはこんなこと、ただのお遊びでしかないのですから」

「遊びだと? 遊びで兵法を諳んじて実践する女がどこにいる?」

「学問に男も女もありませんわ」

 阿遥は少しムッとして、設えてあった椅子に腰かけた。折り畳みの簡易なものだ。彼女の荷物はこの椅子と着替えと、それから一度も開ける様子のない小さな長櫃ながびつが一つだ。天幕自体は壬龍鏢居の所有である。

 阿遥の視線は一度隅に置かれたその長櫃へ向けられ、それからまた壬克秀へと戻った。

「その昔、私がまだ幼い時分に、私に学問を授けてくださった方がおりました。その方は碁が大層お好きで、私はその方の余暇の一助になればと碁の戦い方を学び研究したものです。それでも十に一度良いところまで追い詰める程度、勝ったことは一度もありませんでした。しかしそのおかげで、私は戦略を読む目と策を組む技術とを身に着けたのでございます。だから私にとって、敵にはかりごとを仕掛けじゅつに陥れ、策を講じて勝ちを得ることのすべてがその延長、遊びに過ぎないのです」

「人の生き死にを盤上の遊戯と同一視しているのか? 先は兵を愛するだのどうのと言っていたが、お前は結局他者を道具としてしか見ていないのか」

「すべては勝つためです。そして、最上の勝利とは争わぬこと。敵を抗う余地のない状況へ陥れ降伏させること。そのためならば何でもやりますわ」

 阿遥の視線が壬克秀からその背後へ。壬克秀も人の気配に気づいて振り向くと、壬龍鏢師の一人が天幕の入り口に立っていた。

「申し上げます。範琳殿が戻られました。首尾良くいった、と」

「それは重畳ちょうじょう!」

 頷き阿遥は立ち上がる。

「壬鏢頭、お望み通り待機は今日限りで終わりです。鏢師の方々を集めてください。例の品は準備万端ですね?」

「あの程度の作業などとうに終わらせてある。それで? 範殿は一体何を持ってきたのだ?」

 確か「餌」がどうとか言っていたはずだ。奴らをおびき出すための餌を準備すると。壬克秀にはそれが何なのか知らされていなかった。

「権謀術策、お望み通り手に入れたよ!」

 そこへ範琳が声も高らかにやって来た。天幕を押し開き入って来たその腕の中にあるものを見て壬克秀は驚愕した。そして理解した。なるほどだからこいつらは俺にはなにも言わなかったのか、と。知っていたなら絶対に反対していた。それは江湖を渡る者として、そして人として許しがたいことであるがために。

「さあ、壬鏢頭。舞台も道具もすべてが揃いました。宗主様のため、最後はあなたがやるのです。これがあれば李白は自ら剣を差し出すでしょう。それどころか、奴の命さえもあなたの思うがままとなるのです」

 壬克秀はもう一度阿遥に対する評価を改めた。――やはり、この女は嫌いだ。絶対に相容れることはない人種だ。こいつらとは同じ道を歩むことなどできない。だが、もう引き返すこともできないのだ。

 範琳の腕に抱えられていたのは、まだ十歳にも満たない少女だった。

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