第七節 絶澗の地

 敵の姿はすでに見えなくなっていたが、李白、辛悟、そして元林宗の三人は未だに山間を進んでいた。明け方に追跡がないことを確認し、それから順番に見張りを立てて仮眠を取った。それからまたどこへともなく歩を進め始めたのだが、行けども行けども森や川や谷に出くわすばかり。一向に人の気配が現れない。そうこうしているうちに三日を山中で過ごしていた。

「なかなか人里に出ませんね」

 思わず元林宗の口からそんな言葉が漏れる。別に疲弊したわけではない。ただ延々と同じような景色の中を進むことに辟易してきたのだ。

 するとやれやれと辛悟は肩を竦めた。

「こいつを先導に立てているんだ。その時点で無理な話さ。こいつは道を見失うことにかけては右に出る者がいない」

「それはつまり、迷ったということですか?」

 元林宗が問えば、李白は前を向いたままゲラゲラと笑い出す。

「人生とは迷路のようなもの、迷っているのかいないのか、それは迷路を抜けて初めて明らかとなる。そして迷路を抜けたということは正しい道を歩んだということ。すなわち迷うなどということはあり得ない。道とすべきはつねの道に非ず!」

「詭弁を垂れる暇があったらとっとと行けよ」

 げしっと李白の尻を蹴る辛悟。ピョゲーッ、と飛び跳ねる李白。

 しかしそれなら、と元林宗は思った。

「それであれば、辛殿が先を行かれた方が良いのでは? 迷うとわかっているのならなぜその後に続くのです?」

 ハッ、と辛悟は疲れた声音でその問いを笑い飛ばす。

「こいつを一人にするとそれこそ色々と心労の種が増えるんだよ。元道長もそのうちわかるさ。それに俺が先を行こうものならこいつは――」

「鶏口となるも牛後となるなかれ!」

「――とか言うに決まっているからな。本当にいい加減に」

「なるほど、さすがは師兄だ!」

 元林宗が嘘偽りのない様子で言うのへ、辛悟は実に形容しがたい表情を向けてしまった。例えるのならば「やっと苦労を分かち合うことのできる同士こと道士を見つけたと思ったらそいつも頭がおかしかった」と言いたげな表情だ。この世にはまともな人間は自分一人なのかも知れない、あるいは自分だけがこの世の異端なのかも知れないと絶望する人間の表情だ。

 やれやれと頭を振ってそのくだらない考えを捨てる。李白の傍若無人かつ猪突猛進な言動には十年近い付き合いの中で嫌でも慣れさせられてしまった。今さら同類が一人増えたところで何の問題もない。寿命がせいぜい二、三年縮む程度の心労に過ぎない。

 それに、李白は考えなしに見えてまったくなにも考えていないわけではない。その奇行に隠された真意を悟るのもまた、辛悟がここ数年で身に着けてしまった技能であった。

(敵の姿は消えたものの、まだ追跡されている可能性はある。何しろ相手は俺たちを生け捕りにしようとした、つまり無差別に俺たちを襲ったわけではないのだからな。見知らぬ敵に背中を狙われているのなら、人目を避け姿を隠して移動するのは理に適っている)

 千里を行きてつかれざる者は無人の地を行けばなり、とも言う。敵がいない場所、追って来ることのない道を進むのが行軍の法である。街道を行けばまたいつあの追跡者たちに発見されるとも限らない。だが山中を闇雲に進めば追うにも追えない。そう考えてみると李白の先導もあながち間違いではないと思えるのだ。

 あるいはそうであると信じなければ、心が折れてしまう。

「お?」

 突然李白が立ち止まり、首を傾け耳を澄ませる。つられて辛悟と元林宗も同じ姿勢を取ってみれば、微かに水音が聞こえた。

「近くに川があるようですね」

「ちょうど良い。この辺りで休憩しようじゃないか」

「よっしゃ一番乗りぃぃ!」

 駆け出した李白はいくばくもしないうちに姿を消した。距離を開け過ぎたのではない。足元を疎かにして段差から転げ落ちたのだ。ギャーッ、と山間にこだまする悲鳴。

「気を付けろぉぉぉ、敵の罠じゃあぁぁぁぁ」

「ただの不注意じゃねーか」

 段差を飛び降りてみるとすぐそこが河原だった。細く浅いながらも清水が流れている。長時間歩き続けてさすがに疲れがある。早速喉を潤そうと辛悟は清流に歩み寄った。否、歩み寄ろうとした。看過できないものがそこにあった。

 血だ。すぐそばの岩にいくらかの血が飛び散っている。それだけならば獣が水場を奪い合ったのかと思うだけだ。だがもう一つ、この場にあるはずのないものがそこにある。

「これは、まさか」

 辛悟は血相を変えてそれを拾い上げた。間違いない。これは東巌子の杖だ!

「なぜここに東兄の杖がある? 東兄たちはここを通ったのか?」

「なんじゃなんじゃ、どうしたのじゃ?」

 李白と元林宗も血痕に気づいてやって来た。二人もまた辛悟の手にした杖が東巌子の物であると気づく。すぐさま周囲を探してみるが、誰の姿も見えなかった。

「こちらに血の跡があるぞ。こちらへ向かったのではないか?」

 李白が下流を指差す。確かにそちらへ向かう血痕が点々と残されている。これが誰の血であるのか判別付け難いが、いずれにせよ無視はできない。直ちにそちらへ足を向ける。

 血痕は進むほどに間隔を広げ、しばらく行くとどこにも見えなくなってしまった。このまま川の流れに沿って下るべきかと悩んでいたところ、今度は元林宗があっと声を上げた。

「蘭妹!」

 手を伸ばして枝葉に引っ掛かったそれを手に取る。元林宗の手にあったのは玻璃の飾りだった。元林宗にはそれが何かすぐに分かった。これは蘭香が髪に着けている飾りの一部だ。その根元は何か強い力で引き千切られたように捻じれていた。

「蘭妹とはあの派手な女だな? 楊の令嬢を預けたという」

「そうです。しかしなぜここに蘭妹の髪飾りが? この先に蘭妹が?」

「行ってみなければそれはわかるまい」

 三人頷き合って髪飾りが落ちていた先へ進む。次第に左右の地面が隆起してゆき、そのうちほとんど崖になっていった。加えて道幅はどんどん狭くなってゆく。もう横に五人並べるかというほどだ。

 しまった、と辛悟が内心呟いたのと、先頭を行っていた李白があっと叫んだのは同時だった。

「あれを見ろ! 楊の小娘じゃ!」

 視線を前方に向けると確かに誰かが地面に突っ伏して倒れている。そして李白と辛悟にはその服装に見覚えがあった。間違いない。楊玉環が誘拐されたあの日に着ていた服だ。慌てて駆け寄ってその体を抱き起し、そしてすべてが仕組まれた罠だと悟った。

 それは人の形でありながら人ではなかった。土くれと藁を練り合わせて作った泥人形に服を着せただけだ。そしてこんなものをこの場所へ放置する理由など一つしか考えられない。

 見上げる。崖の上を動く人影が見えた。

「誘い込まれたな。この杖も、その飾りも、あの血痕も。すべてが俺たちをここへ誘い込むための罠だった!」

 来た道を引き返そうと身を翻した直後、ドスッと正面の地面に矢が突き立つ。崖の上から狙われている。その狙いは三人から離れすぎていてとても射損じたとは思えない。後退は許さない、その意思が感じられた。

「頭上に敵か。流星花雨も敵が見えないのでは狙えない」

「ならば一息に駆けるのみ! 絶澗ぜっかんに在らばすみやかにこれを去る、じゃ!」

 絶間とは谷のこと、両側を塞がれた不利な地形である。当然ながらそのような場所は危険である。少しでも早く立ち去らなければならない。

(あちらは俺たちを追い込もうとしている。矢を射かけて退却を阻み、俺たちをさらにこの先へ……)

 そのとき、雷鳴にも似た轟音が発せられた。今しがた駆け抜けた谷間にガラガラと岩がなだれ込む。退路を絶たれた!

「進むな! 伏兵がいるぞ!」

 案の定、唯一の進路となった前方の岩間から数名が飛び出し、こちらへ向かってきた。数は少ない。李白と元林宗はさっと躍り出た。

「邪魔じゃ邪魔じゃ邪魔じゃ邪魔じゃぁぁぁぁぁ!」

 剣を抜き一閃、たちまち剣を二振り、槍を一本断ち切った。

「あれだ! あれがそうだ!」

 襲撃者の誰かが叫ぶ。元林宗が武器を失った者たちへ追撃を仕掛けようとする。が、直前で元林宗は立ち止まり振り返りざまの蹴りを放つ。飛来した矢を蹴り落とした。

 崖の上に弓兵が並び、こちらへ狙いをつけている。ざっと見て左右合わせて十名ほど。いくらなんでもあの人数で一斉に射掛けられればひとたまりもない。

「退け! 道を塞ぐのだ」

 襲撃者たちが呆気なく後退してゆく。当然追わない。彼らが陽動であることはわかっていた。下流には岩壁の間隙が狭くなった場所がある。あそこを抜けた先で多数が待ち伏せをしているのは容易に想像がつく。そして間もなく、先に聞いたのと同じ轟音が聞こえてきた。どうやらあちらも落石で道を閉ざされたようだ。

 もう十分に追い込まれてしまったが、だからといって無謀にもなれない。辛悟は李白と元林宗を呼び戻し射撃の及ばぬ岩陰の下に潜り込んだ。

「あの射手の数、昨夜の連中にしては数が多いようです。一体どうしたことでしょう?」

「お友達を呼んだようじゃな。あるいは金で雇ったか。いずれにせよ囲まれてしまったぞ。さて白石棋士よ、これをどう覆す?」

 さすがの李白も冗談を叩きながら口元を引き攣らせている。李白自身もまさかここまで追い込まれるとは思っていなかったのだ。負けず嫌いの性格が姿の見えない敵将に対する闘争心を掻き立てている。

 しかし答えがない。李白は訝って辛悟を見た。怪我を負ったわけではない。眉間にしわを寄せ、片手で頭を抱えて地面の一点を睨んでいる。別にそこに何かがあるわけではない。強敵と対局する際にはいつもこうなのだ。

「この戦法……まさか、な」

 その口元がポツリと言葉を漏らした。

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