第六節 暗躍

 ガラガラと馬車が街道の先からやって来た。地べたに腰を下ろして休息していた壬克秀ならびに壬龍鏢局の面々は、それぞれに立ち上がって馬車に近寄った。馬車も近づくにつれて速度を落とす。壬龍鏢局の旗を掲げていた。

「遅かったじゃないか。兵糧は十分あると言ったのに、一体何の必要があって人里に足を運ぶ必要がある?」

 壬克秀が棘を含んだ声音で放つ。馬車に乗って行ったのは玄冥幇会の舵主にして「権謀術策」の異名を持つ女、阿遥だった。壬克秀はこの女が苦手であり、嫌ってもいた。小娘のくせに他者を莫迦にし見下すような態度をとる。それが気に入らないのだ。

 なぜ壬龍鏢局総鏢頭である自身がこんな小娘の言葉に従わなければならないのか。いくら玄冥幇会と誼を結ぶためとはいえ、こんな小癪な娘を同行させなければならないとは。

「李白はまだこの山の中をうろついている。引き離されないうちにとっとと追いかけるぞ。物見遊山のつもりでいるなら俺たちの足を引っ張るな。――おい、聞いているのか?」

 無造作に荷台の後方、幌の隙間を開く。すると突如として飛び出してきた白い腕が壬克秀の首を鷲掴んだ。指先が気管を抉り出そうとするほどの力で喉に食い込む。

「なんだい、このギャアギャアとうるさい青二才は」

 喉元を掴んだ人物はそのまま荷台を飛び出し、一度吊り上げた壬克秀の体を力任せに地面へ叩きつける。あまりにも突然のことで壬克秀には受け身を取る暇もなかった。ゲゲッ、とみっともない呻きを発してむせ込む。

 壬克秀を叩きつけたのは灰色の衣装に身を包んだ女だった。長い髪を結い上げ、白木の簪を刺し、壬克秀の首を捉えた細腕は妖艶なまでに白い。口元は薄紗の覆面をしていたが、生地が薄いのと距離が近いのとで容貌ははっきりとわかった。四十ごろの歳に見えるがなかなかの美貌だ。

「範大姐ダージエ、そのうるさいのが壬龍鏢局の壬総鏢頭です。どうか放して差し上げて」

「へぇ、これが壬龍の跡取りかね。どうにも武芸達者には見えないけどねぇ」

 女は声までもがいちいち色っぽい。壬克秀を押さえ込んでいるのも傍からはじゃれついているようにも見える。壬龍鏢局の面々は駆け寄ったもののどうすれば良いかわからず呆然と立ち尽くしてしまった。それをちらりと横目で見て、女はアハハと嗤った。

「壬龍鏢局の鏢師は無能だね。鏢頭がこんな目に遭っているのに揃いも揃って棒立ちとは。私が敵なら、あんたたち、この鞭の一薙ぎで頭を割られているよ」

 腰に提げた長鞭を示す。鏢師たちがはっとしたときにはもう、女は壬克秀を放して三歩退いていた。その隣に遅れて荷台から降りた阿遥が立つ。壬克秀はゲホゲホと咳き込みながら身を起こした。

「だ、誰だその女は……」

「こちらは義姐の「慈心じしん聖母せいぼ」範琳です」

「は、範琳だと? それは「鬼子母神きしもしん」のことか」

 壬克秀がそう口走った瞬間、さらにもう一人が荷台から飛び出した。キラリと刃物が光ったのもつかの間、もう壬克秀の懐に潜り込んでいる。わっ、と叫んだのと同時、キィンと甲高い音を立てて火花が散った。腰に差していた白龍杖がその一閃を阻んだのだ。

 神速の一撃を放ったのは、まだ十ニ、三歳そこらにしか見えない子供だった。女児の姿をしているが壬克秀を睨みつける相貌は強烈な怒りを灯している。

「風児、おやめ。その方は宗主様の客人なのだからね」

 追撃を放とうとしていたその子供は半歩を踏み込んだところで一転して飛び退く。壬克秀を睨みつけたまま逆手に握った短剣を鞘に納め、先の獰猛さが嘘であったかのように静かに範琳の側に寄る。壬克秀はその間、ただの一歩も動けないでいた。範琳が止めなければとっくにあの短刀に命を獲られていたいただろう。鏢師たちも誰一人として応じることができなかった。やれやれ、と言いたげに阿遥が息を吐いた。

「壬鏢頭、言葉にお気を付けを。範大姐は苦難に喘ぐ子らを悪しき輩の手から救済する偉大なお方です。鬼子母神などという二つ名は相応しくありません。呼ぶならどうぞ、慈心聖母と」

 この短時間で壬克秀は二度も鏢師としての面子を潰されてしまった。もはや範琳とその娘と思しき風児とやらには関わりたくない。虚勢を張って「おう」と応えながら阿遥に向き合う。

「それで、どうしてこちらの……範殿を? 街へ降りていたのは、範殿を迎えに行くためだったのか?」

「範大姐を見つけたのは偶然です。本来の目的は別にあります。そしてそれもうまく果たせました」

「宗主様への土産か? なんにせよ時間がない。とっとと出発しようじゃないか」

 壬克秀が急かすと、範琳がくすくすと笑う。壬克秀は何を笑われているのかわからず、しかしながら先の一件から問うのも躊躇われ何も言えない。そこへ御者を務めていた鏢師が近づいて耳打ちした。

「あの二人、道中で壬大哥の悪口を言い合っていました。壬大哥は無能無策で必敗の将だと。だから昨夜ははやって奴らを取り逃がしたのだと」

「なんだと!」

 阿遥を睨みつける壬克秀。御者が何を伝えたかなど阿遥はとっくに察しているはずだ。しかし阿遥は悪びれる様子もなく何事もなかったかのようである。どこまで俺を見下すのかと壬克秀は怒鳴ってやりたくなったが、堪えた。そうだ、今こそこの小娘を言い負かしてやるのだ。

「権謀術策がどれほどのものか。兵法にも言うだろう。「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久こうきゅうなるをざるなり」と。戦いは短期決戦で終わらせるもの、奴を見つけたなら先手必勝で攻めることの何がおかしい?」

 壬克秀と阿遥の目的は、玄鉄の剣を持つと目される李白を探し出し、その剣を奪うことだ。北上する道程にて李白らしき人物が蜀州近辺に出没しているとの情報を得て向かっていたところ、昨夜偶然にも李白を発見したのだ。何人かと一緒に山林で何やら探し物をしていたようだったが、そこを壬克秀は強襲したのである。

 阿遥は鼻を鳴らした。嗤ったのだ。

「それで、結局は取り逃がしてしまったではありませんか。兵法を持ち出されるのなら、当然「勝つべからざるは己に在るも、勝つべきは敵に在り」の一文もご存じでしょう。こちらの準備が万端だからとて、相手の状況を見ずに攻めては勝てないのです。あちらに逃げる術があるのにそれを阻まず、当然のように取り逃がしたのがテメーの策だとでも?」

 阿遥は相手を貶す際、とにかく口が悪くなる。痛烈に言い返された壬克秀は怯んでしまった。

「結果的にはそう見えるかもしれないが、あの場ではそれが上策だった。違うか?」

「結果がダメなら、なんであろうとダメさね。ねえ、阿遥。こいつは本当に何を言っているんだい? 兵法について語れば権謀術策の右に出るものなどいないだろうに、聞きかじったような知識で噛みつこうとはね」

 範琳が呆れた様子で口を挟む。壬克秀はもう何も言いたくはなかった。そうだ、何を言っても昨夜の行動は失敗だった。それは事実なのだからもはやどうあっても否定できない。

 ――それならば、今度はお前が失敗すればいい。

「よし、そこまで言うのなら権謀術策のお手並み拝見と行こうではないか。ここから先の采配はあんたの指示に従おう」

「何をいまさら。テメー、まさか宗主様のお言葉をお忘れになったわけではねーでしょう。本来ならば私が退却を命じた時点でテメーは兵を退かせるべきだったのです。それを聞かなかったばかりか今さら私にその尻拭いをさせようなど、随分と厚かましい面の皮でいらっしゃるのですね」

 これだ。これだから壬克秀は阿遥が大嫌いなのだ。宗主の威光を笠に着て、小娘の分際で年上の男に口答えばかりか命令までしてくる。それが壬克秀は気に食わなかった。こんな小娘の言うことに従わなければならないなど、玄冥幇会宗主の言葉でなければ聞くことなどなかった。

(それをこいつ、ハメやがったな……)

 壬克秀が阿遥の指示に従わなければならないこと、それを壬克秀は部下の鏢師たちに言っていなかった。あくまで彼らに命令を下すのは総鏢頭たる壬克秀である。その指揮権を阿遥に渡すなどあり得なかった。それなのに、昨日の失敗を材料に壬克秀から「お前がやってみろ」の一言を引っ張り出したのだ。一度発してしまった言葉はもう龍が牽く車でも追いつくことはできない。

「いいでしょう。ではまず、範大姐と風児に馬と食料、それから三名ほど人を付けて下さいませ。別行動を取っていただきます」

「なんだと? なぜわざわざ隊を分ける?」

「私の指示に従う、と最前仰ったのはどのケツの穴でしょう」

 つまり黙っていろということだ。仲間の前でこんな小娘に侮辱込みで命令される……壬克秀の自尊心は大いに傷を負った。嫌悪はこうして憎しみに変わるのだと知った。

「人を致して人に致されず。逃げる相手をただ追うのは人に致される、すなわちいいように操られるということ。そうではなく、相手をこちらへ誘き出す策が必要なのです。範大姐にはその餌を調達していただきます」

 なるほど、それでこの女を連れて来たのか。壬克秀はようやく合点がいった。つまりは初めからこうするつもりだったのだ。範琳をわざわざここまで一度連れてきたのは、御者に阿遥の壬克秀に対する悪口を聞かせるためだ。壬克秀から指揮権を奪うための芝居、その一役者だったわけだ。

(何もかもお前の掌の上ってことか? ますます気に入らねぇ)

 壬克秀はますます不満だった。

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