第五節 意外な問いかけ

 翌朝になっても元林宗は帰ってこなかった。

 元林宗に限って、得体の知れない敵の手にかかって命を落とすなどあり得ない。それはわかっていたが、蘭香はやはり不安だった。なにせ、一緒にいるのはあの顔も思い返すだけで吐き気のする李白と辛悟なのだから……。

「でも、心配したってなにも始まらないわ。あたしはあたしのやるべきことをやる、それだけよ。うん」

「どうしたの、お姉ちゃん?」

 うんうんと頷く蘭香の頭上で首を傾げる玉環。しかし蘭香はそれに構わずひょいひょいと岩場を駆け降りた。軽功を使った軽やかな動きに玉環は初めを怖がりこそすれ、慣れてくると実にご満悦な様子で手を叩く。元々は山中を自分で歩かせるのは危なかろうと思って肩車をしてやったのだが、玉環が喜ぶと蘭香も次第に楽しくなってきてしまう。街道に出て街が見えてきても無駄に回ったり飛び跳ねたり。加えて蘭香の奇抜な衣装と玉環の愛くるしい容貌とで衆目を一斉に集めることとなったが、当人たちは一向にそんなことは気にしていなかった。

 さて昨夜は手持ちの乾飯で腹を満たしたが、この日はまだ何も食べていない。玉環は幼いためすぐに腹は空くし、蘭香は朝っぱらから散々軽功を駆使したせいでもはや腹と背中がくっつきそうだ。街に入るとまずは適当な飯店に入って食事を摂る。当然ながらゴマ団子は欠かさない。

「お姉ちゃん、よく食べるね」

 玉環は早々に満腹になってとっくに箸を置いている。それに引き替え、蘭香の健啖ぶりはたかだか八つの饅頭では満足しない。さらに三つを追加したところで玉環は目を真ん丸にしていた。

「あら、そんなことないわ。これぐらいは普通よ。普通」

「そうなの? 一姉さんや二姉さんはその半分も食べないわ。一姉さんはもっと食べなきゃって言うんだけど、それでもすぐにお腹いっぱいになっちゃうの」

 蘭香は江湖に生きるばかりで一切気にも留めていなかったが、中原では程よく肉付いた女性がもてはやされていたのだ。

「きっと武術をやらないからよ。武術じゃなくても、体を動かさなきゃお腹は空かないわ。お腹が空かないのに沢山食べるなんてできないでしょう?」

「あ、そっかぁ! 蘭香お姉ちゃん、とってもキレイだもん。わたしも武術、やろうかなぁ?」

「やろう!」

 玉環の「やろうかな」にそのまま被せる形で蘭香は大きく頷いた。勢いで呑み込んでしまった饅頭の欠片を茶で押し流す。ごくんと呑み込んで一呼吸、卓に銀子を放り投げて立ち上がった。

「この蘭香様が武術の基礎を教えてあげる。美人で強くて天下無双! おまけに美人! あなたもきっとそうなれるわ」

「わっ! やった!」

 ぴょこんと飛び降りるように椅子から立った玉環の手を取る。蘭香は嬉しかった。元より女侠に憧れて江湖に飛び込んだ蘭香である。こと武芸となると目の色が変わる。これまでも元林宗と夜な夜な武芸談義を重ねてきたが、学びたいという人間に出会ったのはこれが初めてだ。自身が磨きに磨きを重ねてきた技を他人に伝授する――それこそ武林の達人らしい行いではないか!

(何から始めよう? いきなり月影玉兎剣法は難しすぎるわよね。やっぱり拳法? でも術理を教えるにはめいいっぱいの座学が必要だし……。ああ、わくわくしちゃう!)

 二人は揃って店を出た。蘭香の足取りは今にも天上へ駆け上がりそうに軽い。頭の中はもう玉環に何を教えるかでいっぱいだ。なので玉環があっと言って立ち止まると危うくずっこけるところであった。どうしたの、と問いかけようと玉環を振り向くと、玉環は前を見据えてぱあっと顔を輝かせた。

「おじいちゃん!」

 蘭香と繋いでいた手をあっさり解き、一目散に駆けて行く。その走っていく先に視線を向けて、蘭香はあっと身構えた。なんとそこにいたのはあの黄衣の老人ではないか!

「小環! なぜここに!」

 顔面はいびつな形のまま、老人は声だけを踊らせて玉環に向けて腕を広げる。玉環は迷わずその胸に飛び込んだ。

「悪い人に無理やり連れて行かれたの。でもお姉ちゃんたちが助けてくれたよ。ほら、蘭香お姉ちゃん!」

 玉環は喜色も露わに蘭香を指差す。それで老人も蘭香に気づいた。老人はピクリとほんの僅かに眉を動かしただけだったが、老人に肩を貸していた武官姿の方は思わず声を漏らしていた。

「あなたは昨日の!」

「桃蘭香よ。見敵必殺けんてきひっさつ武威ぶい娘娘ニャンニャンの異名ぐらい聞いたことあるでしょ」

 武官は首を傾げたが、老人は「ない」と即答する。耄碌爺め、と蘭香は心中で悪態を吐いた。江湖に名高いこの桃蘭香を知らないとは、こいつら見識が狭いにも程があるのではなかろうか。

 昨日いきなり襲いかかられたこともあり、蘭香はずかずかと二人の前に歩み寄ると手酷く相手を罵ってやろうと口を開きかけた。が、先に言葉を発して制したのは老人の方だった。それも意外な内容で。

「昨日は済まなんだな。この小環が鬼子母神の悪党に誘拐されたと聞き、わしも焦っておったのだ。お主が鬼子母神でないことはすでに知っておる。過ちを認めぬ愚者ではないぞ、わしは」

 要するに昨日の出来事を詫びているらしい。口調がまったくそれらしくないが、言っている意味はわかる。

「あ……うん。わかればいいのよ、わかれば!」

 蘭香はすっかり毒気を抜かれてしまった。向かい合った二人を前に、玉環は不思議そうに両者を見比べた。

「おじいちゃん、蘭香お姉ちゃんとお友達だったの?」

「ああ、そうだよ。あの人はとても強いからね。悪党をやっつけてくれたのだね」

「そうだよ! 蘭香お姉ちゃんはとっても強いの!」

 まさかの老人がこちらを褒めそやし、玉環もそれに乗っかる。蘭香はたちまち気恥ずかしくなってしまった。普段はあれほど声高らかに武名を嘯いているのに、どうして他人に面と向かって言われるとこうも恥ずかしいのだろう?

 どうにも調子が狂う。蘭香は視線を老人から武官へと向けた。

「それで? 昨日、林哥哥があなたたちを追っていったはずよ。会わなかったの? あのクズの李白と辛悟は一緒じゃないの?」

 武官は老人と顔を見合わせ頷いた。

「あの方が仰っていた義妹とはあなたのことですね。李居士と辛棋士は傷を負った私たちを逃がすため、敵を引きつけ二手に別れたのです。あなたの義兄もそちらへ」

「あたしが訊いているのは行き先よ。どこへ向かうとか、聞いていないの? あんたたちはあいつらの仲間なんでしょ? 安否が気にならないの?」

 これには武官も頭を振るばかり。老人がフンと鼻を鳴らした。

「気にならぬ、と言えば嘘になる。しかし奴らもそうそうくたばるような輩ではない。それともお主の義兄はそんなに頼りないのか?」

「バカ言わないでよ! 林哥哥はとっても強いわ。そこらのクソ悪党なんか鎧袖一触よ!」

「では何を気にする必要がある?」

 これには蘭香も押し黙る。元林宗の力量は贔屓目に見ても二流三流に劣らない。しかしだからといって不安がまったくないはずがあるだろうか?

 玉環がキョロキョロと三人を見比べ、それから老人の袖を掴んで蘭香に正面を向けた。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんのことが心配なんでしょう? 私はおじいちゃんと一緒に帰る。だからお姉ちゃんはお兄ちゃんを探しに行って」

「えっ? いや、でも……」

「お姉ちゃん、お兄ちゃんのことが好きなんでしょう?」

 思わぬ一言が飛び出した。思わず「うえっ!?」と変な声が出る。武官が顔を背けて吹き出しそうになるのを堪えている。玉環は構わずに続けた。

「一姉さんが言っていたよ。離れてしまうとどうしても不安になって会いたくなる、それが人を好きになることだって。お姉ちゃん、お兄ちゃんのことが好きなんでしょう?」

 蘭香は言葉を失い、ただパクパクと口を動かすばかり。それを見て老人はくつくつと喉の奥を鳴らし、武官はもう肩まで震わせて堪えている。当の玉環は首を傾げて「違うの?」とでも言いたげだ。

「小環や、そこまでにしておいてやろうじゃないか。誰しも心に秘めたいことはある。大人になるとなおさら、な。無理に暴いてやることもない」

「そうなの? 好きなら好きで、それでいいのに」

 なんだかすっかりそういうことにされてしまっている。蘭香は迷いを断ち切るようにぶんぶんと頭を振った。頭に巻いた長布が揺れ、硝子細工の飾りがジャラジャラと鳴った。

「そういうのは、その、今はどうでも良いでしょ! 私は林哥哥からその子を家まで送り届けるようにと言われたの。ここであなたたちにその子を預けてしまったのじゃ約束を果たしたとは言えないわ。私がその子を家まで送る、いいわね?」

「異論はない、と言いたいところじゃが、あいにくこちらも本来の目的はこの子を連れ戻すことでな。おいそれとお主一人に預けるわけにもいかん」

 老人はそこまで言ってから視線をちらりと武官に向ける。武官はその意味を悟って咳払いを一つ、姿勢を正した。

「この子の親は蜀州司戸のよう玄琰げんえん殿。悪人からご息女を救ってくださったあなたと義兄殿にきっとお礼をと仰るでしょう。義兄殿もきっと李居士らと共に楊府へ向かわれるはず。ここは同道するということで一つ、いかがか?」

 彼らの目的も蘭香の約束も果たせる案として真っ当な申し出だ。蘭香は一瞬昨日の行き違いについて思い浮かべたが、老人は先ほどそれについて謝罪した。ならばそれを蒸し返すのは野暮と言うものだろう。それにやっぱり、なんの手掛かりもなしに元林宗を探しに行くよりは、無事を信じて待つ方が良いと思われた。

 そういうわけで、蘭香は武官と老人と玉環の四人で蜀州楊府を目指すことになったわけだが。

「あら、あなた方は」

 そこへまた一人、声をかけてきた者がいた。武官は訝しげに首を傾げたが、東巌子と蘭香は揃って「あ」と返す。

 阿遥がそこにいた。

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