第二節 我らが主

 現れたのは天吏獄卒てんりごくそつだ。その後ろに続いて入ってきたのは小柄で出っ歯な中年男、飛鼠ひそである。阿遥はあからさまに顔を顰めた。彼女は飛鼠を毛嫌いしているのだ。

「天吏獄卒様、どうしてこちらへ?」

「おいこら、俺様は無視かよ」

 無視しているので返答しない。天吏獄卒は懐から一通の書状を取り出した。宿の窓枠に挟まっていたものと同じ、袁夫人からの招待状である。

「私がお呼びしたの。どうせ宴席を囲むなら大勢の方が楽しいでしょう?」

 ちらりと阿遥の視線は袁夫人と飛鼠の間を行き来した。「こいつは呼ばなくてもよかっただろう」と言いたげだが、袁夫人はそれに気づいているのかいないのか、新たな客である二人に席を勧めた。阿遥にとっては不幸中の幸いなことに、隣に腰を下ろしたのは天吏獄卒で、飛鼠は天吏獄卒と袁夫人の間に陣取った。酒壺を勝手に引っ掴み、手酌で酒杯をなみなみと満たす。

 それとは別に、袁夫人は天吏獄卒へ酒を薦めた。

「私、天吏獄卒様とはあまりお会いする機会に恵まれないことを悔いておりました。今夜お会いできたことは真に光栄ですわ」

「袁夫人のお噂はかねがね。袁殿も変わらず壮健そうで何より」

 天吏獄卒が巨猿に向かって挨拶すると、巨猿もそれを理解しているのかウゥと唸りながら頷いた。袁夫人の表情がぱっと花開いたように輝いた。彼女はこの巨猿の妻を自称しているが、世間の者はそれを「異常だ」と言って白い目で見る。ゆえに面と向かって巨猿を「夫」として扱う人間にはたちまち親近感を抱くのである。

「本当に、宗主様には感謝してもし切れませんわ。皆さまが袁嘯を我が夫と認めてくださるのは宗主様のご理解あってのことなのですから」

「その通りだ。宗主様は実に寛大な心をお持ちだ。あのような方を主とできるのは、我が人生で最大の幸運と言えよう」

 天吏獄卒の言葉に一同揃って頷いた。天吏獄卒は続ける。

「今の治世を天下泰平と囃し立てる輩は多いが、そんなことはない。この目は山ほどの悪官汚吏を見てきた。あれらを除かぬ限りこの世は真に天下泰平とならぬ。この世には未だ、法を逃れる悪人どもが蔓延はびこっている。俺はそれが我慢ならぬ。ゆえに俺が裁きを下すのだ。それは余人にできぬ崇高な行いなのであると、宗主様は仰ってくださった。ふふん、この俺をこそ法に裁かれるべきだと抜かしたどこぞの長吏とは大違いだ」

「天吏獄卒様は正義を愛するお方。その行いを理解できぬ者こそが悪なのです」

 阿遥が酒壺を勧めると、天吏獄卒はそれを受けた。次に口を開いたのは袁夫人だった。その身を傾け、巨猿の太腕に寄りかかる。

「私のことを世間は悪女だとか狂女だとか呼ぶ。確かに私は多くの者たちをこの手にかけた。でもね、それは妬みや恨みのせいではないのよ。私を捨てたあのろくでなしどもが口にした愛とやら、その本当の姿を見てみたいだけ。こんなにも世の中には惹かれ合う男女が掃いて捨てるほどいるのだもの。きっとその中には一つくらい、本当の愛をその腹の中に納めている奴がいるはずなのよ。私はそれを探し出して、袁郎と私自身の中のそれと比べてみたいの。そうすればきっと、私たちの愛が本物だとわかるはず」

 ぐぅ、と唸って巨猿は袁夫人を抱き上げた。腕に座らせ、胸元へと抱き寄せる。

「宗主様だけだった。私たちを夫婦だと認めてくださったのは。そしてあの方はあまつさえ、私たちのために婚礼の儀を上げてくださった。ああ、あの瞬間のなんと愛おしかったことか!」

 その婚礼には阿遥と天吏獄卒も参列していた。上級貴族と下賤の者が婚礼を許されずに駆け落ちし、逃げた先で婚礼を上げるなどという話は珍しくもない。だが人と猿との婚礼など空前絶後の出来事に違いなかった。二人とも内心では驚きつつも、袁夫人が花嫁姿で喜びに震える姿を見てすとんと納得したものだ。世の中に一組ぐらい、こんな歪な夫婦がいたところで構わないではないか、と。

 そういえば、と飛鼠が口を開いた。物を食べながらなので食べかすがポロリと出っ歯の間から転がり落ちる。

「権謀術策はなんでまた宗主様のお側に仕える? 俺たちが宗主様と出会ったとき、お前はもう宗主様にお仕えしていた。宗主様との間に何があったんだ?」

 飛鼠に問われるとはなんとも気分が悪かった。宗主との馴れ初めは阿遥にとって大切な思い出、それを余人に、それもこんなドブネズミのような相手に明かしてやる義理はない。だが困ったことに天吏獄卒と袁夫人もこれには興味津々の視線を向けてきた。言いたくない、などと言える雰囲気ではなかった。

「私は……」

 言い淀み、阿遥は酒杯の中身を一気に喉へ流し込んだ。杯を投げ捨てるや一息に。

「お慕い申し上げているからです! それ以外の理由が必要ですか?」

 有無を言わせぬ主張。なぜか怒鳴られた側の三人はきょとんと顔を見合わせ、それから各々微笑を漏らす。

「そんなことは傍目に見ても明らかじゃないか。俺たちの誰か一人でも、それに気づかないでいる奴がいると思ったか? お前が宗主様へ向ける目の熱っぽさは誰もが承知さ。――で、お情けはいただけたのかい?」

 飛鼠のあまりにも無礼な言葉に阿遥は隠しもせずに睨み目を向ける。あのドブネズミは宗主が阿遥をまったく相手にしていないことを承知の上で、その腕に抱かれたのかと問うているのだ。正直に答えてはあまりにも惨めだし、かといって偽りを述べるのも虚しいだけ。それになにより、婚姻関係にない娘が我が身を預けたなど遊女の行いだ。口にできるわけがない。

 阿遥が酒と怒りとで真っ赤に上気させたところへ、また廟前に誰かの気配がやって来た。

「おやおや、宗主様はあたしのお婿になってもらうつもりだったのに。権謀術策が恋敵じゃ分が悪いかねぇ?」

 扉を開けて入ってきたのは範琳はんりんである。手には袁夫人の招待状。背後には風児も付きしたがっている。今日は少年の姿だ。

「範姉様、今度こそ娘さんを見つけたのね?」

 風児が女の姿をするのは決まって範琳の手元に女児がいない時である。風児が男装しているということは、つまり手元に娘と呼ぶべき女児があるということだ。

「ええ、今度こそ私の雪華せつかに違いないわ。あの愛らしいかんばせ、雪のような肌、ふっくらとした体つき。あたしの雪華に間違いない」

「それは重畳」

 皆が口々に祝いを述べるのへ、範琳は腰を曲げて礼を言った。阿遥も渋々祝いを述べたが、明らかに他の三人に比べて気持ちが入っていない。それに気づかぬ範琳ではあるまいに、なにも言わないばかりか阿遥の空いている側の隣へと腰を下ろした。風児はその背後に影のように寄り添う。

「雪華はきっと宗主様のお気に召すわ。もちろんあたしは、宗主様が雪華を嫁にしたいと仰ってくださるなら嬉しいわ。だって宗主様は、あたしが雪華を探す後押しをしてくださったのだもの。この御恩は一生かかっても返せない。あのお方に恩返しができるなら、あたしはこの身を粉にしても本望よ」

 最後の一言に関してはこの場の誰もが「その通り」と追従した。

「私たちは宗主様のお側に侍る者として、宗主様の大望を果たすお手伝いをしなくては。そうでなければ、私たちは恩知らずの畜生だわ」

 袁夫人はそう言って、そこでちらりと阿遥へ視線を向けた。それでようやく、阿遥は袁夫人が今夜ここに皆を集めた理由を知った。まったく、彼女の丈夫だんなは本当に鼻が利く。各地に散らばる彼らをただちに見つけ出し、この場に招集したのだから。

「宗主様のご威光は、この一地方に留めておいて良いものではありません。遍く天下を照らす陽の光のように、闇夜を払う月光のように、万民の元へ届けられるべきなのです」

 阿遥の言葉に誰もが悟った。ついにこの時が来たのか、と。

「我々玄冥幇会は、その版図を全国へ広げるのです。まずは蜀を、ついで魏を、斉を、遍く天下を! そのためにはまず、我々は今一度心を一つにしなければならない。我々が為すべきことを心に刻まねばならない。そして我々が行くべき道を、天に問う!」

 阿遥は立ち上がり、高らかに宣言した。

「見よ、宗主様の旗揚げの瞬間を! 時は重陽、場は峨眉山。集え、天問てんもん大会へ!」


(了)

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