第三節 深夜の下拵え

 暗がりの中に、ぼうっと燭台の明かりが灯る。これが突如目の前で起こったとしたら、気の弱いものは失禁するか卒倒するかであろう。その明かりに照らし出された奇面は團旺のものだ。斜め下から照らされたその容貌はより凹凸を強調され幽鬼さえも恐れ戦くほどである。

 ギシ、ギシ。息を殺して歩みを進める。息を殺す、と言っても、実際のところは乱杭歯の間から息が漏れ、涎も滴っている。まるで飢えた獣のような息づかいである。時折、抑えきれなかった笑声が混じった。

 燭台を壁際へ翳す。頭から幌を寝具代わりに被った人の形がそこに蹲っている。まるで岩にでもなったかのように微動だにしない。それもそのはず、彼らに飲ませた茶には眠り薬が混ぜてあったのだ。例えこれから雷雨が訪れようとも目を覚ますことはないだろう。

 その横を通り過ぎ、戸を突いて押し開く。そこは蘭香が休んでいる部屋だ。まず頭を突っ込み、すすんと鼻を鳴らす。花とも薬草とも異なる、女特有の色香が鼻孔をくすぐった。

「イシシ、クヒッ!」

 戸は開け放したまま、燭台を床に。足運びを擦り足に変えて寝台ににじり寄る。膨らんだ寝具は長い間隔で拡縮を繰り返し、中の人物が深い眠りに落ちていることを示している。

「ハヘッヘッ。美味しく喰ってやるから……な? ハヘヒッ……ケヒッ!」

 もう一度大きく深呼吸。胸一杯に香りを吸い込みつつ、両手を真上に。その手中には牛刀が握られている。牛の骨すら断つ刃物だ。いわんや人の身体をや。

「――そこまでにしていただきましょう」

 今にも振り下ろされんとした手首を、しかし背後から引き止められた。はっとして振り向けば、薄暗がりの中に爛爛と輝く双眸。冗談など一切受け付けぬ鉄面皮。元林宗がそこにいた。

「ハヒッ、ヘヒヒーッ!」

 團旺は飛び退こうにも手首を抑えられ身動きが取れない。そこを擒拿きんなで捻り上げられ、戸口の外へと投げ飛ばされた。その大柄な体は戸の縁を掠めて一辺を破壊しながら転がった。

「ホヒヒ。な、なんで、眠らせたはずなのに……ヒヒ」

「生憎と厄介な毒物に半年間苦しめられたものでして。並大抵の薬物では何の効き目も出なくなってしまったのですよ」

 ザッ、ザッ。元林宗の足音が迫る。團旺は床を打って立ち上がり、そこへ元林宗の跳躍しざまの側空翻そくくうほんが炸裂した。胸元に直撃を受けた團旺の体は、今度は小屋の入り口を突き破って外へ飛び出す。チッ、舌打ちを漏らす元林宗。あの手応えではまだ息がある。

「ハヒヒッ、ケケ、アヒャヒヒハヘ!」

 案の定、というより、むしろ予想よりはるかに團旺は堪えた様子がない。何が可笑しいのか狂ったように不気味な笑声を発しながら、まだ牛刀を握ったままの右腕を振り回した。

「ヘケケ。邪魔するなよぉ。お前はマズそうだから、後にしたいのに」

「蘭妹に何をするつもりだったか、話していただかなくとも結構」

 元林宗も戸外に出た。両手を肩の位置に掲げ、ゆっくりと指を折る。バキバキッ、と関節が鋭い音を発する。内力が充溢している証拠だ。拳を握り、半身を取りつつ前後に構えた。

「――天よ、今宵は殺戒を破ります」

「キャヒィィィィィィィッー!」

 牛刀が唸る。狙うは前に出た右腕か。元林宗はこれを見抜くや、寸でのところで構えていた腕を降ろす。牛刀が空を斬る、直後團旺の鼻梁を元林宗の右拳がへし折った。鼻から鮮血を撒いて吹き飛ぶ團旺。元林宗は即座にこれを追い、追撃の騰空飛脚とうくうひきゃくを胸に打ち込む。

「むっ」

「ハヘァッ!」

 團旺の右腕が横薙ぎに振るわれる。元林宗は蹴りの反動を借りて空中で身を捩りこの斬撃を回避、距離を取った。なるほど――心中頷いて得心する。

(服の下に何やら防具を付けているな? それで威力が殺されているのか)

 蹴った際の感触からそれを悟った。元林宗は最初から徹頭徹尾、渾身の内力を込めて攻撃を放っている。團旺はそれを防御するでもなくすべて真っ向から喰らっているが、怯む様子がない。こちらの打撃を散らす仕込みがあるのは間違いない。

 團旺の足元にぼたぼたと涎が落ちる。ぎらぎらと目を光らせ、その姿は獲物を狩る獣のようだ。しかし元林宗は動じることなく右前の半身の姿勢を取る。どれだけ相手が殺気立っていようと、人は人だ。形を模したところで別種の獣にはなれない。

 牛刀が唸る。元林宗は右足を蹴り上げた。牛刀の刃がその脛に接触した。團旺が「キャヒーッ!」と雄叫びを上げる。獲物を仕留めたのがそんなに嬉しいのか。だが、それはぬか喜びだ。

 キィン、と涼しい音を発して、牛刀の刃が折れた。そのまま夜闇の中に消えて行く。團旺は何が起こったのかわからなかっただろう。呆然としたその瞬間、振り戻された元林宗の足が今度は團旺の右膝を外側から蹴り折る。どれだけの防具を仕込んでいようと、関節は守れない。加えて團旺自身の体重がのしかかり、その膝はメキリと音を発して潰れた。

「アギャヒィィィィィィッ! 痛てぇ、痛てぇぇぇぇ! ハヒィッ! ハヒヒィッ!」

 團旺の発する声は痛苦と狂喜とが入り混じっているように思えた。破壊された膝を押さえつつも、口元は笑っている。――狂人だ。元林宗は改めて彼をそう判じた。この男は狂人なのだ。理解できる相手ではなく、もとより理解するつもりもない。

「少し、黙っていただけませんか。蘭妹が眠っているのですよ?」

「キヤァァァァァァァッ!」

 近づいた元林宗に掴みかかろうとする團旺。元林宗はその手を真っ向から掴み返すと、間髪入れずに親指を圧し折った。さらに一層甲高い悲鳴を上げる團旺。これで何も掴めまい。さらに左足で顎を蹴り上げ、次いで着地しざまに右足でもう一撃。顎骨を粉砕された團旺は仰向けに吹っ飛び、天を見上げて転がった。もはや声を発することはできず、ただただ喉の奥から呻き声を発するのみだ。周辺には砕けた歯が散らばっている。

「ようやく静かになっていただけたようで。ご理解いただき感謝いたします」

 皮肉を込めて抱拳礼を取る。團旺はそれを見ていない。ただただ天上を見上げ、泣き声とも笑い声ともつかぬ音を発し続けていた。

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