紅袍賢人

第一節 広すぎる敷地

 指し示された方角に視線を向け、しかしげん林宗りんそうは首を傾げた。

「失礼、あの中のどれがそうなのですか?」

「全部だよ。あそこに見えるのが全部、李客りかく様の持ち物さ」

 焼餅シャオピン屋の主人はそう言ってやれやれと言わんばかりに頭を振った。

「貧乏人には金持ちのやることなど理解できんよ。山一つを丸々抱え込んで、あんなに広いお邸を建ててどうするってんだか」

 なるほど、確かに目を凝らしてみると、視線の先の山一つが白い塀にぐるりと取り囲まれている。あの緑葉の中にちらほらと見え隠れしている楼閣の屋根は、すべてその敷地内にあるのだ。――あれらすべてが一個人の所有物と聞かされて、そうやすやすと納得できる者はおるまい。

 元林宗も例に漏れず唖然として声も出せないでいると、その正面でジュウと焼餅が香ばしい音を発した。

「で、買うのかい、買わないのかい?」

「これは失敬。二つ――いえ、三つ貰いましょう」

 主人が包んでくれた焼餅を懐に、元林宗は小走りで市場を後にした。向かった先は少し離れたところにある小川を跨いだ桟橋。その欄干に腰かけるようにして、一人の少女が待っていた。

 少女は奇抜な衣装を身に纏っていた。色とりどりの生地を繋ぎ合わせた衣装は曼荼羅のように幾何学模様を描き、縁取りには蓮の花を模した飾りまで縫い付けてある。頭には薄緑の長布をぐるりと巻き付け、玻璃の飾りはその両端に螺旋を描くように巻き付けられていた。上着はなぜか二の腕部分がざっくりと省略されて白い肩が露わになっており、それだけで世の娘は赤面ものなのに足元は太腿の半分から先がズボンから突き出ている。ぶらぶらと欄干で揺らしていた足首の片方には赤い帯が蝶結びで括りつけられ、もう一方の太ももにはひらひらした襟の飾りを付けていた。

 少女の名はとう蘭香らんか。元林宗の旅の同行者である。

 元林宗が近づいたのを足音で知り、蘭香は顔を上げるやまず笑顔を、そしてすぐさまそれを膨れっ面に入れ替える。変臉へんれんもかくやの早業である。

「林哥哥にいさん、遅い!」

 別れてから茶の湯が湧くほどの時間すら経っていないのに遅いと罵られるとは、果たしてどれほどのせっかちなのか。しかし元林宗はもはや慣れたもの、何も言わぬままに懐に入れていた焼餅の包みを差し出した。すると案の定、蘭香は首を傾げて包みを見、そしてその香りを知るやまたもぱっと表情を変える。

「買ってきてくれたの? あたしのために?」

「長旅で疲れたろうからね。歩きながら食べようか」

 包みを開き、一つを蘭香に、一つを自分に。余った一つはまた懐に入れて歩き出す。行き先は焼餅屋の主人から聞いたあの大邸宅だ。焼餅を齧りながら、しかし元林宗の目元には険しい色があった。

(ようやくたどり着いた……。だが、ここからが重要だ)

 元林宗は隋州の道観、飡霞楼さんかろうの一番弟子であり、生まれながらの道士である。しかしそんな彼がなぜ遠路はるばるこの隴西郡までやって来たのか? 事の次第は半年前に遡る。

 ある夜、道観に一人の賊が忍び入り、迎え撃った元林宗に毒を喰らわせたのだ。その毒は時間をかけて体を蝕み、それでいて容易には解くことができない。その毒を解くことができるのはこの世にただ一人――かつて江湖に名を馳せた「江湖三侠」の一人、紅袍こうほう賢人けんじんだけだった。

 そうして今ようやく、元林宗は紅袍賢人の邸宅を探し当てた。しかし安堵はできない。なぜならば賊の真の目的も紅袍賢人にあるからだ。賊は紅袍賢人が所有する「天問牌てんもんはい」なる秘宝を狙い、彼を道案内として仕立て上げるために毒を盛ったのだ。今も姿を見せずに彼の後を追ってきているに違いない。

 さっと視線を四方に配る。今のところ、怪しい気配は感じられない。道中でうまく撒けていれば良いのだが……。

「ねぇ、もしかしてあれがそうなの?」

 焼餅を食べ終えた蘭香がぺろりと指先を舐めながら正面を指さす。

 蘭香の示した先には大きな門がでんと構えている。門番の類は見当たらないが、その扉の重厚さ、左右の塀の高さがそんなものは必要ないのだと身を以て示しているようだった。

「ここがその李なんとかって人のお邸?」

 蘭香はあんぐりと口を開けて、感心しているのやら呆れているのやらわからない声を漏らす。はたから見ればなんとも滑稽な様子なのだが、しかし元林宗は至って真面目な表情のまま「そうだ」と答え、ついでに蘭香の口元に付いていた焼餅の残りかすを取ってやった。

「人違いでなければ、こちらが紅袍賢人こと李客様のお住まいだ。私は今から李客様にお会いしてくるけれど、らんメイはどうする?」

 すると蘭香は急にむすっとした表情になり、唇を尖らせながら塀に背中を預けた。

「あたしは行かない。林哥哥だけで行ってきてよ。あたしは李姓の輩とはできるだけ関わりたくないの。ついでに言うと、辛姓の奴も」

 どうやら蘭香は李辛の両名に対し何やら恨みがあるらしかった。だが元林宗はそれを追究するような野暮なことはせず、ただ「そうか」とだけ言って頷いた。それから懐に手を差し入れて、残り一つの焼餅を包んだ紙包を蘭香に渡した。

「そう言うと思って、もう一つ買っておいたよ。これを食べながら待っていておくれよ」

 蘭香はたちまち不満げな表情を引っ込め、もちろん、と答えつつ早速包みを開いて焼餅にかぶりついた。年頃の娘にしてははしたない行為だが、彼女の場合はこれこそが似合っている。元林宗はそんな彼女の姿を一瞬だけ微笑みながら流し見て、またすぐに一転、表情を引き締め大門の前に立った。

「弟子、げん林宗りんそう。師伯にお目通り願います」

 年若いながらもその声は内力に満ちている。すると、返事はないもののすぐさま正面の門扉が軋みながら左右に開く。入れということらしい。元林宗はふぅっと息を大きく吐き、背中をピンと伸ばして門をくぐった。

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