第五節 絶招「四苦掌」
動きを封じられた東巌子は自らこれを回避することができない。ただ天吏獄卒の掌が迫るのを待つだけかと思われたその瞬間、真横に突き飛ばされる。
「辛悟!」
東巌子が叫ぶのと、天吏獄卒の絶招が炸裂したのは同時。辛悟の体はそのままどさりと頽れた。蘇頲はその場から一歩も動く事が出来なかった。辛悟が掌打を受けたその瞬間、耳に届いた音に恐怖したからだ。全身の骨が砕け、筋骨が断裂するかのような……。それは紛れもなく辛悟の体内から鳴り響いたものだった。
しかし様子がおかしい。天吏獄卒のことだ。自らの眼前で力なく倒れた辛悟を見下ろして、しかしどこか狼狽しているようだ。怯えるように半歩足を引き、そしてさっと視線を東巌子へ向ける。
「辛悟……辛悟だと? ではやはり、そうなのか?」
「貴様が天吏獄卒で、そやつが辛悟で、わしが李白じゃ! それがどうした!」
いつの間に復活したのか、李白がバンと一挙動で起き上がり天吏獄卒に迫る。左腕はぶらんと垂れ下げ、右手だけで殴りかかる。が、天吏獄卒はこれを迎え撃つどころか大きく跳び退く。あれだけの武功を持つのに、なぜ片腕の相手を恐れる?
まさか? ――蘇頲は一つの可能性に思い至る。まさかと心中で呟きながら、しかし同時に確信を得る。もしもその通りなのだとしたら、辛悟があのような問いかけをした理由、そして天吏獄卒の不可解な様子に説明がつく。
天吏獄卒が身を翻す。あっと叫んで後を追おうとした李白だが、ぐらりと体勢を崩して大きくつんのめった。左腕が勝手に揺れて引っ張られたのだ。その間に天吏獄卒の姿はたちまち夜闇の中に溶け込んで消えてしまった。
「辛悟!」
東巌子が恐慌の色も露わに辛悟の元へ駆け寄り、その体を抱き起こす。蘇頲も恐る恐るそちらへ近寄った。あれほど強大な掌力を受けて、辛悟は果たして生きているのか?
(わ、わしは、わしは何をした? 若者が命散らすのをただ呆然と見ておっただけか?)
自責の念に捕らわれようとしたとき、突如辛悟が呻いてがっと血を吐いた。東巌子の胸元が真っ赤に染まり、蘇頲はそれでまた息を呑んだ。だが同時に安堵する。彼はまだ生きている!
「まだ息がある! 早く、早く医者の元へ連れて行こう。幸いわしに同道している腕の良い医者がおる。奴に即刻診せるとしよう」
息急き込んで蘇頲が言うのへ、しかし東巌子は頑として異論を受け付けない様子で頭を振った。さっと辛悟を抱えたまま立ち上がり、壁に突き刺さっていた杖を引き抜く。
「これはただの骨折や打ち身ではない。深い内傷を伴った厄介な傷じゃ。並の医者では治せぬ」
「ではどうする? まさかそのまま死なせるつもりではあるまいな!?」
言ってしまってから、蘇頲はしまったと思った。彼らは義兄弟、義弟を見捨てるような真似をするはずがない。案の定、東巌子は蘇頲をきっと睨みつけた。が、同時に蘇頲は気付いた。東巌子のその目に、真珠のような粒があるのを。
「こやつはわしのために傷を負うた。わしが治す! もしも治せなんだら……わしも共に死ぬだけじゃ!」
言うなり足元の李白を蹴りつける。ぎゃっと叫んで飛び起きた李白を尻目に、東巌子もまた廟外へと飛び出す。黄土色の背中もやがて暗闇に呑まれて消えた。
「おいこら、おいこら。わしとて怪我をしとるのじゃぞ。もうちょっと労わってやらんかい」
李白も後を追おうとして、しかし扉の一歩手前で立ち止まる。くるりと振り向き、にいっと蘇頲に笑いかけた。
「今夜の酒宴はここまでじゃ。わしらは行くが、結んだ義兄弟の契りは変わらぬぞ。また縁があれば、今度は互いに詩歌を作って楽しもうではないか」
まるで今ここで行われた激闘がなかったものであるかのような物言いだ。蘇頲も思わず応と返してしまう。李白はその反応に満足したように頷くと、ぶら下がった左腕をぐいと肩口に嵌め込んで――折れていたのではないのか? ――身を翻し立ち去った。
蘇頲は暫くの間、その場で呆然と立ち尽くしていた。
江湖の侠客とは何者か?
天に代わって罰を下すは悪か?
法の執行者は、人の身でありながら人を裁く事が出来るのか?
答えはなかった。
(了)
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