第二節 楽府題、長門怨
赤髪の若者がまた酒を一口含み、次いでカラカラと笑う。
「侮っておったのはわしの方じゃな。かような絶技の後に武芸を披露する度胸など、このわしとて持ち合わせておらんわい。じゃが、わしがこの三年で学んだものは武芸だけではないぞ」
「ほう、それは何だ?」
公子が合いの手を入れると、赤髪の若者はぐっと胸を張って自信満々に発する。
「詩歌じゃ。このわしは武芸と同時に、詩歌の道も究めたのじゃよ。その才覚たるやわし自身でも恐ろしいと感じるほどでな。かの
(青二才が、何を抜かすか)
司馬相如とは前漢時代の文章家で、武帝に仕えた名臣として知られている。そしてここ益州の出身だ。なるほどこの地で文才ある者を讃えるのにうってつけの人物である。だが、それを他人ではなく自らの口で語ろうとは。
蘇頲はふんと鼻を鳴らして、慌てて顔を手で覆った。幸い中の三人には聞かれなかったようだ。
「おい、李白。司馬大先輩を引き合いに出すのは良いとして、それを自分の口で言うのか?」
公子が蘇頲を代弁するかのように言う。その口元に嘲笑を見て取り、赤髪はさらに喚いた。真っ赤なのは酒のせいか憤りのためか。
「辛悟のくせに、言うではないか。ようし、それならば今ここで一篇詠んでやろうぞ。ちょうど楽士も居ることだしな。題目は何なりと選ぶが良いわ!」
「楽士とはわしのことか?」
白髪老人が苦笑しつつも傍らの包みを解く。中から取り出したのは七絃琴。胡坐の上に置いてビィンと弾く。口ではああ言いつつも準備は万端だ。
「よし、それでは「
公子が出した題目は
李白はふむと頷くや、先ほどまでの騒がしさはどこへやら、目を閉じ唇を真一文字に引き結び考え込む。が、それもつかの間。公子が注ぎ足した酒盃をほんの少し傾けた時点で、「できた」と叫んで飛び起きる。
待つ間にゆっくり呑もうとしていた公子、ぐっと眉間にしわを寄せて訝しげだ。
「もうできたのか? いくら何でも早過ぎだぞ。わざわざ恥を掻くことはない。もう少しゆっくり考えたらどうだ」
「いや、要らん。こーゆーのは一瞬の閃きが大切じゃ。グダグダ悩む必要はない。そうとなれば――さあ東兄、七言絶句二首で合わせよ」
老人は応とも言わず頷きもせず、ただ一度ビィンと弦を掻き鳴らす。それが合図だ。李白は立ち上がって咳払いを一つ、まるで人が変わったかのように朗々と詠み上げた。
天回北斗掛西樓 金屋無人螢火流
月光欲到長門殿 別作深宮一段愁
桂殿長愁不記春 黃金四屋起秋塵
夜懸明鏡青天上 獨照長門宮裡人
目の前に情景が浮かぶ。かつては黄金色に輝いた宮殿も色褪せ、星は無情にもまた時の流れを告げに来る。誰もいない夜闇の中では蛍の光だけが幾たびも輝いては消え行き、月齢が巡って宮殿を照らすたび、怨みはより一層深くなってゆく。そうして幸福であった頃を忘れてしまうほどの時を、果たして人はどのような心で過ごすのか? 黄金の装飾も剥がれ落ちて塵と散じ、ただ己を照らすは天上の鏡だけ……。
心に沁みるようだった。特に蘇頲自身も長安から南の地へ送られた身の上、かつての栄華はとうに過ぎ去ってしまった。この身は当時の陳皇后と同じく、忘れ去られる恐怖と憂いと怨みとに満ちている。だからこそ、蘇頲には感じられた。夜の晴れ空にかかる明鏡とは希望なのだと。暗闇の中で己をもう一度見出してくれる光なのだと。
「――上手い!」
蘇頲は隠れているのも忘れて声を発してしまった。それほどにこの若者の詩は素晴らしかった。哀愁と怨恨の陰鬱な中に、一筋の光明を残すとは! ただ一瞬の閃きでここまで情趣深い詩を思いつくなら、なるほど司馬相如に比肩すると言える。加えて琴の演奏も素晴らしく心を揺さぶり、眼前に寂れた金屋と憂いを帯びた皇后の姿が見えるかのようであった。蘇頲は胸を抱き、涙すら流していた。これで泣かぬ者がいるなら、それは詩歌を解せぬ無学の輩か、とうに泣き枯らした哀愁の人だけだ。
もはや隠れている必要などない。誰何を受けるよりも早く、蘇頲は廟の扉を開いて中に飛び込んだ。そして一直線に三人の前に進み出る。
「上手い、上手い! 確かに貴殿は司馬相如に比肩し得る文才の持ち主だ! どうかこの蘇頲めに御名を聞かせては貰えぬか?」
赤髪の若者をはじめ、青服の公子も白髪の老人も、突如乱入した蘇頲に驚いた様子はない。まるで戸外に誰かが潜んでいたことをとうに察していたかのようだ。いきなり飛び込んできた半泣きの蘇頲に、赤髪の若者はにやっと笑いかけた。
「わしの文才を理解するとは、そちらも教養ある御仁のようじゃな」
そして腕を伸べて白髪の老人、七絃琴の名奏者を示す。
「こちらは我らが長兄、
「勝手に呼び名を決めるかね」
老人はくつくつと笑う。口元の筋肉が一切動いていない歪な笑みだが、面白がっているのは間違いなさそうだ。蘇頲が「お初にお目にかかりまする」と頭を下げれば、軽く会釈を返すのみだ。
若者は次に薄幸そうな公子を指し示す。
「こちらは末弟の辛悟。囲碁の腕前と他人を虚仮にするのだけは一人前じゃ。こちらは「
「おい、それはどんな意味だ?」
「貴様が常に白石しか使わぬ、という意味じゃ」
白石は後手、余裕のある者、すなわち強者が使う色だ。となれば、常に白石を使うとは負け知らずの意味となる。なるほど囲碁の名人に付けるなら良い呼び名だ。言われた側はまさか赤髪から称賛されると思っていなかったのか、むぅと呻いて黙り込んだ。ただ蘇頲を向いて拱手だけは返した。
さて、いよいよ赤髪の番だ。先の二人を紹介する間、蘇頲はずっとうずうずしていた。この才覚に溢れる若者は一体何者なのか。気になって気になって仕方がない。だが赤髪はそこでドスンとまた腰を降ろし、おもむろに盃を取っては酒を注いで蘇頲に差し出す。
「さあ、突っ立っておらんで一杯やらぬか」
蘇頲はもう我慢ならない。
「まず名を聞かせてくれぬか」
「いいや、まず先に一杯じゃ」
赤髪が言うなり、蘇頲はどっかと腰を降ろして盃を受け取ると、ぐいっと一息に喉へ流し込んだ。これを見た赤髪はぐっと親指を立てた。
「良い呑みっぷりじゃ! 良かろう、良かろう! わしの名は李白――人呼んで「
「第三? ではあと一人、二番目の兄弟を待っておるのか?」
蘇頲が問うと、赤髪は大口を開けて大笑する。実に愉快だと、その身を以て示すかのように。
「何を言う? 二兄は――蘇兄、貴兄じゃよ。共に輪を囲み酒を酌み交わしたなら、わしらはとうに兄弟じゃ」
もしも李白がただ口喧しいだけの若者で、詩才など無い凡人に過ぎなかったなら、蘇頲は直ちに剣を手にしてこの傲岸不遜の輩を斬り捨てたに違いない。この蘇頲の身の上を知らぬとは言え、年長に対してあまりにも遠慮が無さすぎる。酒を勧めて無理に呑ませ、勝手に義兄弟だと抜かすとは。
だが、この時ばかりは違った。蘇頲はそれだけ、李白の才能に感激していた。心の中では、この若者はいずれ知らぬ者なしの大詩人になるであろうと予見さえしていた。それはほとんど確信に近かった。だから、そのような未来の偉人と義兄弟の契りを結ぶに何の抵抗もなかった。
今度は瓶子を取って李白の盃を満たす。こちらも注ぎ終わるや即座に呑み干した。次いで東楽士、辛棋士とも盃を交わす。
「結構、結構! 今宵は実に愉快じゃ。さあさあ、十分に呑み明かそうぞ!」
李白がまたげらげらと笑って盃を満たし、「呑もう!」と掲げる。残る三人も各々盃を掲げ、やはり「呑もう!」と言って盃を干した。
夜は更けていった。
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