第二節 対聯勝負

 何が起こったのか理解できずに時が静止する。ややあってからようやく転落事故が発生したのだと理解しようとした矢先、墜死したはずの李白がガバッと飛び起き、まるで何ごともなかったかのように指先を壬克秀に向けた。

「このブッサイクが天女の如き月圓を嫁にするぅぅぅ~? かーっ! 寝言は棺桶の中で言えっ! 月圓の婿とはすなわち、わしの義兄弟となる男。であれば少なくともこのわしと並んで見劣りせぬ美丈夫でなければならぬ! つまり貴様は不合格じゃ! そーら帰った帰った、ペッペッ!」

 壬克秀は控えめに見ても美形の部類に入る。それを面と向かってこき下ろし唾を吐きかける李白と言えば、顔面は潰れて血まみれ、二目と見れぬ酷い有様である。これには普段から風流人を気取っている壬克秀も瞠目して後退りせずにはいられない。

「な、なんだこいつは!」

 その問いに間接的に答えたのが月圓だ。駆け寄った勢いのまま李白の胸に飛び込み、押し倒す。ゴツ、と李白の後頭部と床とが鈍い音を発した。

「兄さん! 兄さん! 今までどこに行っていたの? どうしてまた突然帰ってきたの? まさか……私の事を心配して戻ってきてくれたの? わっ、嬉しい!」

 抱き着いた相手がまた動かなくなったことには気づいていないのか、月圓は兄の胸に頬を押し付ける。その光景に壬親子は茫然として言葉も出ない。

 やれやれ、李客は苦笑を交えながら頭を振った。

「随分と騒がしいことだな、はくよ。勝手にふらふらといなくなったかと思えば、まさかこんな頃合いで戻ってくるとはな。よもや、家業を継ぐ決心がついたとでも?」

 この言葉は効果覿面だった。覆い被さる妹の体を押し退け、李白はまたもガバッと立ち上がる。ついでに服の袖で顔面の拭い形を整え、それからまたペッペッペッと唾を吐く。

「このクソ親父が、相変わらず耄碌しておるな! わしは月圓がどこの馬の骨か糞かもわからぬ輩と縁談をすると聞いて、仙化の修行を中断して駆けつけたのじゃ。紅衣鏢局の後釜なんぞ、そんな面倒な役目を誰が負うものか、くたばれ老害!」

 親に向かって不敬にもほどがある。しかし李客はどこ吹く風、酒楼の美姫を口説いて袖にされたとでも言わんばかり、ただ肩を竦めただけだ。咎めも怒りもしない。

 李白はそんな父親にもはや目もくれず、再び壬克秀へと向き直った。

「わしの妹は多芸多才、並みの男では釣り合わぬ。このひょろ長もやしはどうにもそうは見えぬなぁ。わしの義弟の方がまだましじゃ。足の長さでは劣るが、な」

 壬克秀は一瞬眉を顰めたようだが、またすぐに笑みを取り戻して頭を振る。

「白兄上、お初にお目にかかります。私は壬龍鏢局の壬克秀。体躯には恵まれておりませんがこれでも鏢師の端くれ、武芸には自信があります。加えて挙人の先生をお迎えして学問も修めております。自慢ではありませんが、文武両道には自信がありますよ。なんならご披露してもよろしいが?」

 これは暗に勝負を誘っている。放蕩放題の李白などただの破落戸ごろつき、文武を競って己に敵うわけがないと見下しているのだ。もっとも李白は屋上から転落して現れて以降、下劣な言動しか見せていないのだから蔑まれて当然なのであるが。

「ほほう! なかなかどうして、言うではないか。ならば――よし! この縁談、文武を競って決めようではないか」

 ちら、と壬烈華の横目が李客へ。突然の闖入者が場を仕切り始めたことに苦言を呈したいのだろう。この喧しい小僧をどうにかしろと言いたげだが、李客はそれを無視したばかりかからからと笑った。

「よかろう、よかろう! ではこれより三つの題を出す。文が二つ、武が一つで如何か」

「いいや、文が一つに武が二つじゃ!」

 ゴン! 壬烈華が白龍杖を床に打ち付けた。ぎろりと李親子を睨みつける。

「放蕩者の青二才が、鏢局を生業とする我らに武の勝負を二つだと? よほど負けたいと見える。――よし、その勝負に乗ってやる。李姑娘も、異論はないな?」

 勝負がついてから当の本人が頑なに拒んでは意味がない。壬烈華が念を押すと、しかし李月圓は先ほどまでとは打って変わって、あっさりと首肯した。

「兄さんこそこの世で一番の人よ。負けるはずがあるものですか。もしも万が一にでも負けたなら、私は諦めてそちらの壬公子に嫁ぎましょう。でももしもそちらが負けたなら――壬鏢頭、引退してくださいまし」

 壬烈華の双眸が火を噴かんばかりに見開かれる。だが罵声を発したりはしない。李月圓を壬家に入れれば、それは紅衣鏢局を壬龍鏢局が呑み込むことを意味する。それに見合う条件として、壬烈華の引退は妥当である。彼が引退すれば壬龍鏢局の力は弱まる。紅衣鏢局が版図を広げる切っ掛けになろう。

 ここで引き下がればそれこそ壬龍鏢局の恥だ。壬烈華はこの条件を呑むしかなかった。

「では初めに文の勝負だ。対聯を出題するから、壬公子と白児とで答えてもらおう。本来なら出来栄えを競うべきだが、文の善し悪しは評価する者にも依存する。今この場で公平な裁定者を立てることはできんだろうから、回答の早さで競うものとする。もちろん、最低限の形式は守った上で、だ」

 李白と壬克秀は同時に「よし」と合意した。壬烈華も異論はない。

「それでは行くぞ。そうだな――山清水秀(山は青く水は透く)!」

 李客がさっと李白へ目配せする。李白の驚くまいことか。すぐに父親の考えを察して口を開いた。

 李白と月圓とは昔から好んで対聯勝負に興じていた。そして李客が今しがた出題したのは、ある中秋の頃に兄妹を競わせるために出題したものだったのである。李客はすでに息子が一度回答したことがある題を出題したのだ。題の意味を解し、それに符合する対を考える過程はすでに済んでいる。李白はただ過去の回答を繰り返すだけでよかった。

(クソ親父が、月圓を嫁にやりたくない考えはわしと同じじゃな。卑怯な手口は気に入らんが、今だけは乗っかってやるわい)

「花好……(花は美しく……)」

 が、ここで何を思ったか、李白は口を噤んでしまった。と言うのも、李白が昔詠んだ対は「花好月圓(花は美しく月は丸い)」。妹の名前を含めてからかったところ、その月圓が大層へそを曲げてしまったのだ。さらには「桃紅李白(桃は紅くすももは白い)」などと続ける始末。今また同じ対を繰り返せば、また妹は不機嫌になるのではと気が引けたのだ。

 そんな一瞬の動揺と迷いが勝負を分けた。李白が言い渋っている間に、壬克秀が声を張り上げて答えたのである。

「人寿年豊(人は長生き、食う物困らず)!」

 李白と月圓は驚愕して顔を見合わせた。壬克秀が思いのほか早く対を返した……からではない。

 以前に兄妹は互いの名を対に含めてからかい合い、とうとう喧嘩になりかけた。そこで母親が話を逸らそうとして「人寿年豊」を答えたのだ。出題が自然を詠んで情趣深いにもかかわらず、これでは現実的過ぎて興醒めだ。李白が「ダメじゃ、ダメじゃ」と笑い出し、その場は何とか収拾したのである。

 その母の回答をなぜ壬克秀が繰り返したのか。李白には皆目見当がつかない。すると突如、壬烈華がからからと笑い出した。

「これはこれは、この広間へ来る途中で見かけた対聯を出題されるとは。やはり文の出来栄えには不安もあったのでな、手加減ありがたく頂戴するとしよう」

 きょとんとしていた李客だが、すぐに何やら思い出した様子で一緒になって笑い出した。

「そうか、そう言えばあの門扉に貼っていたな。すっかり忘れていた。ハハハ!」

 ――直後、李白がその後ろ襟を、月圓が腰帯を引っ掴んで李客を奥へと攫って行った。有無を言わせぬ強引さである。

「ちょぉぉぉぉっとお父様とお話することがあるので、お二人はどうかその場で少々お待ちを。お茶でも用意させますので!」

 思い出したように振り返った月圓の作り笑いは、それもう盛大に引き攣っていた。

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