花好月圓

第一節 覗き見

 なぜ自宅を歩くのに足音を殺さねばならぬのだろうか。息を潜めねばならぬのだろうか。いくら正門を通らずに塀を飛び越え回廊の屋根を歩んだからとて、ここがかつて暮らした生家であることには変わりはないはず。何をこそこそと隠れなければならないのか。

「そりゃあだって、のぅ? 気まずいものは気まずいんじゃ」

 誰にともなく李白は呟く。自問自答の結果は彼自身が良く知っている。自分から出て行ったくせに、今さらどの面下げて戻れよう?

 本当ならばこちらへ寄るつもりなどなかった。岷山を下りて成都へ向かう道すがら、わざわざ郷里への道を選ぶ必要はなかった。ただ、偶然耳にしたどこぞの何者かの噂話が気になったのだ。

「紅衣鏢局がとうとう後継ぎを決めるらしい」

 それがどのような意味であるか、李白にはたちどころに理解できた。理由も何も言わぬまま同道していた義兄弟たちと別れ、軽功を駆使して駆けつけたのである。

 持ち主の傲慢さや虚栄心を反映したかのような無駄に広い敷地は、それだけで侵入者を惑わす迷路だ。しかし李白はその隅々を知り尽くしている。多少の増改築では惑わされることもない。やがて李白は大広間のある一棟へとたどり着いた。なぜかその屋根には一ヶ所大穴が開いており、補修前の応急処置なのか藁が敷かれていた。李白は屋上に腹ばいになると、その藁を指先でかき分け屋下を覗き込んだ。

 広間には知った顔が二つと、見知らぬ顔が二つあった。見知らぬ顔の方は門前に留めてあった馬車隊の主に違いあるまい。その馬車隊は一幅の旗を立てていた。金糸銀糸で刺繍された一対の龍――壬龍じんりゅう鏢局ひょうきょくだ。

「李鏢頭、いかがかな? 双方にとって悪い話ではないと思うが」

 広間の正面には卓を挟んで首座が二つある。見知らぬ二人のうち、首座の一方に座る威厳溢れる風格の偉丈夫が問いかけた。ちらりと額の中心から左の頬にかけて古い刀傷が見える。長く江湖の荒波を渡ってきた印だろう。その右手には白銀に輝く龍頭の杖が握られていた。あれは噂に聞く壬龍鏢局の宝、白龍杖はくりゅうじょうに違いない。であればそれを手にする男は壬龍鏢局の長、壬鏢頭こと壬烈華れっかだ。

「少なくともそちらにとっては良い話だろうな。だが、こちらにとっても良い話かどうかは別だ」

 やや嘲笑混じりにそう返したのは、もう一方の首座に腰かけたもう一人。紅色の衣装に身を纏い、冠を戴く髪には白髪が混じっている。李白はその声を聞くなり両耳をごしごしと袖で拭った。まるで汚らわしいものが触れたかとでも言わんばかりである。それもそのはず、その首座の人物こそ李白がこの家を出て行った元凶、他ならぬ李白の実父李客りかくなのだ。

 李客が一本指を立てる。

「第一に、壬龍鏢局と紅衣鏢局が一つになると壬殿は言ったが、それは事実と異なる。両鏢局が一つとなる、それは壬龍が紅衣を併呑することに他ならぬ」

 それは、と壬烈華が口を挟もうとするのを、李客は二本目の指を立てて制した。

「第二に、こちらとしては壬龍鏢局から受け取るみかじめ料もそれなりの収益となっていてな。これがなくなるのは実に惜しい」

 壬烈華はこれには口を挟もうとせず、しかしあからさまな舌打ちを漏らした。李客が三本目の指を立てる。

「第三に、鏢頭が男児でなければならぬ定めはない。わしの娘が後を継いでも何の問題もない」

「一介の鏢師ならばまだしも、鏢頭が女に務まるかっ」

 壬烈華の言葉に真っ先に反応したのは、下座で話を聞いていたもう一つの見知った顔。紅い髪、青の瞳を備えた若い女だ。李白はもちろん彼女を知っている。李白の二歳年下の妹、月圓げつえんだ。しかし昔の面影があるにしても李白の記憶にある彼女とはもはや別人だ。思い返せば十年近く会っていない。その間に妹は格別の美女へと変貌していたのである。

 月圓が腰を浮かせて立ち上がろうとするのを、しかし李客が腕を掲げて制した。何か言いたげな娘はしかし黙って座り直し、李客はそれから四本目の指を立てた。

「第四に、そちらのご子息……名を克秀こくしゅうと申されたか? あまり良い噂を聞かん。娘を嫁がせるにはいささかどころか大分不安しかない」

「それはそれは、大変な誤解ですよ」

 ここでようやく残る一人、下座で月圓と向かい合うように座っていた男が立ち上がった。背丈はあるが横幅が細く、ひょろりとした印象だ。鏢局の一員にしては装飾の多い華美な衣装を身に着け、その手で扇子を弄んでいる。本人は書生でも気取っているのかもしれないが、十分遊び人の気配が漂っている。彼は口元に甘ったるい笑みを浮かべ、ちらりと流し目を月圓に向けた。向けられた方はあからさまに眉を顰める。

「この壬克秀、縁あって李姑娘グーニャンと知り合い、心奪われた次第。確かにかつての私は品行方正清廉誠実とは言い難い人間であったかも知れません。しかしそれはそれ、過去のこと。もしも李鏢頭がご息女を私に下さったなら、私は李鏢頭を落胆させませんよ。それどころか、良い婿を迎えたと世間に標榜したくなるでしょう」

「娘を嫁にやらずとも真人間になるのが真っ当な行いだろうが。人の娘を取り引きの材料にする前に、その腐った性根を悔い改めろ」

 李客が唾棄するかのように言い返せば、壬克秀は何も返せず顔を真っ赤にする。実に滑稽な姿だ。屋上で李白は笑い出したくなるのを懸命に堪えた。

 見かねた壬烈華が目配せして息子を下がらせた。

「確かに克秀は品行に問題がある。それは親であるこの私が認めよう。だがよく考えるのだ、李鏢頭。あんたは娘を後継ぎにするなどと言ったが、本当にそのつもりなのか? こんな美人で器量好しな娘を、わざわざ刀剣入り乱れる危険な現場へ放り込むつもりか? もし本当にそのつもりだとしても、その次の世代はどうなる? 孫の顔を見ないまま、李家が途絶えても構わないと?」

「な、なにを言うの!」

 今度こそ月圓は顔を真っ赤にして立ち上がった。まだ年若い彼女のこと、自らの子作りについて言及され羞恥極まったのだ。

「父さん、言ってやってよ! 李家は決して断絶しない。兄さんもいつか必ず戻ってきて、李家を継ぐんだって! 私も決して意に沿わない縁談なんか受けないわ。壬龍と紅衣が一つとなる? 笑わせないで! 雀の涙みたいなみかじめ料しか払えないくせに、何を対等な位置にいるみたいに!」

 ズドン! 壬烈華の白龍杖が床を打つ。月圓ははっとして身構えたが、壬烈華はそれ以上動かない。ただ月圓の舌鋒鋭いのを挫くだけが目的だ。じろりと月圓を睨めつけた後、その視線を李客へ向ける。

「……それで、どうなのかな? 品行の悪い息子を持ったのはお互い様じゃないか。行方不明の長男とやらは今どこに?」

「ここにおるぞ!」

 まったく予期しない声が突如として割り込み、その場の全員――ただし、李客を除く――が、ぎょっとして声のした方角、天井を仰ぎ見た。そして仰天した。藁で塞がれていた穴を突き破り、誰かが真っ逆さまに落ちてくる。もちろん、それは李白であった。

「縁談なんぞ糞喰らえじゃ。妹に釣り合う男なんぞこの世のどこを探してもブビャッ!」

 口上を垂れることに専念しすぎたのか、李白は空中で体勢を立て直そうとしなかった。そのまま顔面から床に突っ込み、うつ伏せのままピクリとも動かなくなった。

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