第三節 旅立ちの前に
うぅ~ん? お主、どこかで見た顔じゃのぅ。あぁ? なに、昨日会ったじゃと? バカを申すな! そんな昨日のことをこのわしが忘れるものか。……あん? 酒をぶちまけた? 何を言うておるか、あれはぶちまけたのではなく、文字通り浴びるように呑ませてやったのよ。――ん、そういえば誰に呑ませたのじゃったかな? 辛悟か、はたまた東巌子か? いや、どちらでもないような……いやお主は黙っておれ、今思い出して……おうおうそうじゃ、お主のようなボケ面を引っ提げたお間抜け野郎にぶっかけてやったのじゃった。ちょっとした戯れのつもりが辛悟の奴め、首の骨を折ってわしを眠らせたのじゃったわい。
――で、そのボケ面が何の用じゃ? いや無言で小指を取るな痛いではないかアギャギャギャギャァァァァァァァ!
何をするんじゃお主はぁっ! 軽くぽっきり行ってしまったではないかこのすかポンちんちらちんめ! ……いやさすがに目突きは勘弁してくれいやほらこの通り、一献どうじゃ? 朝っぱらから酒を呑む趣味はない? 旨いものはいつ呑んでも旨いのに、勿体ないのぅ。
ところでわしを呼び止めたのは、まさか昨夜の文句を言うためだけではあるまいて。おう、そうじゃ。辛悟からちらっとは聞いておるぞ。なんでも他人の身の上話を聴き出しては書物にまとめるのが趣味な変態だそうじゃな? 己で日記をつけるならまだしも、わざわざ他人の人生を書き連ねるとは、お主はよっぽどの暇人なのじゃな。しかし良い趣味じゃ。人は一人分の人生しか生きられぬ、しかし他人の生き様を知れば何度でも生きられるってものじゃから、の。
辛悟からはどこまで聴いた? ……ふむ、戴天山へ向かった辺りか。そうじゃ、わしは辛悟と東兄と宴席を囲んだ翌朝、ふと思い立って戴天山へ向かったのじゃ。というのも、戴天山にはちょっとばかり逸話があってな。そのかみ江湖三侠が戴天山で強敵を討ち果たしたのじゃが、クソ親父――ではなくて、紅袍賢人はその戦いで愚かにも怪我を負った。それで療養のため大明寺という寺院にしばらく滞在したのじゃ。すると暇を持て余した紅袍賢人は何をトチ狂ったのか己の武芸のすべてを書物にしたため、大明寺へ残したというのじゃ。紅袍賢人本人の人品下劣はともかく、江湖三侠と謳われた武芸者の秘伝書、梟雄ども垂涎の一品よ。
初耳か? それもそうじゃ、紅袍賢人はそれを一切他人に明かすことはなかったからの。わしとてあのクソ親父が寝言で言わなんだら知るべくもなかったわい。
そんなわけで、わしは大明寺を目指したわけじゃ。ついでに隠棲する道士でも見つけて仙道の基礎でも学ぼうと思ったところじゃが、あいにくそれは叶わなんだな。
おーっと、そうじゃ! 道士はおらなんだが、仙女ならばおったぞ。封月峰という場所が戴天山にはあったのじゃが、わしが訪れたまさにその時、大雨によって崩れ落ちたのじゃ。すると土壁の中から女の声がする。その土壁から突き出た腕を引っ張ってみたところ、現れたのはこの世に二人とおらぬ美女……じゃったと思う。いや、直後に頭を岩にぶつけてしばらく死んでおったようでな、記憶が曖昧なんじゃ。
……なーんじゃその顔は。なんでもない? なら話を続けるぞ。
紅袍賢人の武芸書はちっーとばかり面倒な場所に隠されておったが、この李白にかかればあっという間よ。折良く共に鍛錬する相手も見つかって、わしは三年を費やして己の武芸を磨き上げた。もはや紅袍賢人すらも凌駕する腕前よ! ……まあ、その間に辛悟も東兄も世に稀な武功を身に着けておったがな。
おや、戴天山での騒ぎを知っておるのか。まあ、あれだけのことがあったのじゃから、江湖に噂が流れるのも仕方がないわい。そうじゃ、わしはまさにあのとき、大明寺におったし、あの騒動の渦中におった。
別にそれ自体は構わんのじゃ。宝を手にすればそれを狙う愚か者どもが集まってくるのは必然じゃからな。それに、わしとしても身に着けた武芸を試す良い機会じゃから、そういうのはむしろ歓迎したいぐらいじゃった。しかし彼奴らはやり過ぎた。何より赦し難かったのは、わしの義妹を殺したことじゃ。共に武芸を学びあった仲間の一人を、奴め惨たらしく斬りおった。
わしはもちろん怒った。じゃがそれ以上に、義弟が怒り狂った。わしは取り巻きどもを罠に嵌め、敵の首魁を義弟の元へ送り込んだのじゃ。あやつはきっと自らの手で決着をつけたがると思ったからの。さもなくば己の無力を嘆き続けることになったろうよ。
勝負の行方はかなり危ないところじゃったが、義弟は敵を倒した。じゃが代償も大きかったな。激戦で経絡をやられて二度と武芸をできぬ体になってしもうた。それでもあいつは満足しておったよ。得難きものを得た、と言ってな。あやつは今、長安で仏法修行に励んでおる。いずれ
そういえばわしらの二つ名はもう聞いたか? なに、聞いておらん? 辛悟め、そのあたりが抜けておるから短足なんじゃ。わしらはちょうど数も三人、新生江湖三侠を名乗るにぴったりじゃ。長兄東巌子は「
おっと、義兄弟といえば一人忘れておったわ。二番手はわしではなく、
蘇兄は正義感の強い御仁でな。そのころ江湖を騒がせた「
しかしそれがまた奇妙な巡りあわせでな。そこへ間もなく、天吏獄卒本人も現われおった。奴め、蘇兄の正体を見破るや手に掛けようとする。加えてそれを止めようとした辛悟までも侮辱しおった。もちろんそれを黙って見ておるわしらではないわ。わしらは一斉に天吏獄卒へ殴りかかった。
奴の武功は大したものじゃ。わしと東兄二人でかかっても余裕綽々じゃ。しかしこれがまた奇妙でな。東兄を庇った辛悟が重傷を負わされたが、天吏獄卒はそれに酷く動揺した。それまで何人も殺してきた江湖の強者が、ただ一人を打ち据えただけでうろたえる。それどころか、わしがまだ残っておるのに身を翻して逃げたのじゃ。そしてその日からじゃよ。天吏獄卒が江湖から姿を消してしまったのは。
奴がなぜそんな行動を取ったのか、わしらには知る由もないわい。わしらは瀕死の辛悟を介抱せねばならんかったし、の。しかし辛悟はわしらの手当ても空しく岷山で息を引き取った……。
――え、なに? 後ろを振り向け? なんじゃわしを怖がらせるつもりってうわぁぁぁぁぁぁ! 辛悟、貴様いつの間にわしの後ろに!? え、いやもちろんお主は生きておるわ。わしが手当てしたのじゃから当然――ってぎゃぁぁぁぁぁぁぁ! 東兄もおったのか! 地味に脛を蹴るでない! 痛いではないか!
えぇい、つまりはそういうことじゃ。辛悟はしぶとく生き永らえて、この通りぴんぴんしておる。しかし先日また妙な話を聞いた。お主も知っておるじゃろう? 天吏獄卒が再び江湖に現れ、今度は江湖の英雄と称される者どもの悪事を暴いて断罪しておると。そうじゃ、少し前に中天幇会が壊滅したのにも天吏獄卒は関わっておる。人攫いの悪女、「
おっと、時間か? そうか。こちらもちょうどキリの良いところじゃ。
わしらはもう行かねばならん。その鬼子母神の息子に知り合いが刺されてな。大事はないが、事は一大事じゃ。わしらはこれから蘇兄の元へ向かわねばならん。なんなら、お主も来るか? この先には必ず、江湖を揺るがす嵐が待ち受けておる。それをその両の
ああ、もちろん冗談じゃ。本気にするな。お主は平穏なまま、日々を過ごせばよい。ついでに気が向いたなら、この一連の話を文に
これから起こることのすべて、見逃すでないぞ。
(了)
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