第三節 円卓勝負

「だってぇ、息子はふらふらどこへとも知らずに放浪を始めるし、母さんは出ていくしで、寂しかったんだよぉ。昔の対聯を張り出して思い出に耽ってもいいだろぉ?」

 唇を窄めてぶーたれる李客の顔面を、李白は遠慮なく殴りつけた。が、李客は紙一重で首を捻って回避する。李白の拳は背後の壁を打った。痛みにのたうつ李白と、ため息を吐く月圓。

「だからって、わざわざあれを出題することはないでしょう?」

「ちなみにお前たちの対は裏側に貼っておいたぞ。後で見に行こう」

「今はそんなことどうだっていいの!」

 月圓の足が瞬時に動き、李客の頭頂に踵を振り下ろす。が、李客はわずかに体を前方に傾がせ、踵ではなくふくらはぎが接触するようにした。同じ威力であろうとも、ふくらはぎの柔らかさではそれも半減だ。加えて李客はくいと顎を上げ、月圓の脚を跳ね上げる。たたらを踏んで月圓は後退した。

「済んだことをごちゃごちゃと責めるな。今は次の勝負について考えようじゃないか」

「元凶がよくもぬけぬけと言いおるわっ!」

 また起き上がって組み付こうとするのへ、李客はつま先を伸ばして止める。足首を蹴りつけられた李白はその場に蹲って悶絶だ。その様子を李客はやれやれと頭を振って見下ろす。

「白児よ。お前、戴天山へ行ったのではなかったのか?」

「あぁ? それがどうした? おー、痛てて」

鑑円がんえん方丈が便りをくれてな。色々と騒ぎを起こしたことも聞いている。……で、水底の石箱は見つけたのだろう? それにしては技が未熟じゃないか」

「だーれがクソ賢人の武芸書をそのまま修めるか! 思い上がるでないわっ!」

 李客は落胆も露わにまた頭を振った。色々と言いたいことはあるようだが、言うだけ無駄と諦めたのだ。

「まあ良い。多少なり身に着けたならどうにかなろうよ」

 飄々として李客は広間へと戻っていく。残された兄妹は、本当にあの親は大丈夫なのかと不安を隠せなかった。

 さて広間へ戻ってみると、壬親子は揃って来客用の椅子に腰かけ茶を飲んでいた。しかしそれとは別に三人は揃って片眉をピクリと動かした。広間の景色が様変わりしていたからだ。客人用の二列の椅子が隅へと追いやられ、その代わりに広間の中央には二つの円卓が並べられていた。

 壬烈華が茶碗を置いて立ち上がった。

「次は武の勝負だ。今度はこちらから出題させてもらおう。克秀と白殿とで手合わせするのが順当だが、怪我をするのはよろしくない。ここはひとつ、我々も勝負に参加するのは如何かな?」

 壬烈華がそう言って李客に視線を投げると、李客はほほぅと頷いた。

「つまり、わしと克秀殿、壬鏢頭と白児とで手合わせすると? 若輩が年長に敵うこともなかろうから、確かに心配は少ないな」

「その通り。加えて武器は使わず徒手にて行い、内力も使ってはならん。白殿と克秀と、より長く耐えられた方を勝ちとしよう」

「待て待て。それではわしとこやつが揃って負けを認めなんだら、どうする?」

 李白がもっともな口を挟むと、壬烈華は得たりとばかり「そのためのこの円卓よ」と返した。ははぁ、と李客がその意図を即座に汲んだ。

「勝負をこの二台の円卓の上で行い、降参せずとも白児と克秀殿のいずれかが床に落ちた時点で負けとするのだな?」

「いかにもその通り!」

「なるほど、それは判りやすい。好し! その勝負、乗った!」

 さっそく李白が卓上へ飛び乗る。それに続き、壬烈華、壬克秀、李客もそれぞれ卓へ上がった。

「李鏢頭、どうかお手柔らかに」

「案ずるな。近頃めっきり鈍ってしまってな、大して出来はせぬよ」

「おい、クソ親父! 今度しくじったらただでは置かんぞ!」

 拱手して目下の礼を取る壬克秀に対し、李白は目の前の壬烈華など気にもしていない。無視されてはさすがの壬烈華も眉を顰めたが、いちいち咎めはしなかった。

「では李姑娘、開始の合図を」

 月圓はこくりと頷き、両卓構えたのを見計らって「始め!」と号令を発した。

 この勝負、月圓は内心で李家の勝利を確信していた。なにしろ月圓ら兄妹の父、李客はかつて江湖に名を轟かせた紅袍賢人こうほうけんじんなのだ。その異名があまりにも有名になりすぎたため、世の多くの人はその本名を知らなかった。壬烈華がもしも李客と紅袍賢人とが同一人物であると知っていたなら、このような勝負は仕掛けなかったはずだ。紅袍賢人の技など若輩者が相手では三手も受けられるものではない。壬克秀がいくら鏢局の御曹司、武芸に秀でていようとも、相手になるはずがなかった。この勝負は即座に李客が壬克秀を追い落とし、決着するものと見えた。

 だが、そうはならなかったのだ。

「何のつもりだ!」

 開始直後、李客の怒号が飛ぶ。あろうことか壬克秀は、自ら卓の外へと飛び出したのだ。まさか開始早々に負けを認めたわけではあるまい。その意図は即座に知れた。壬克秀は軽功で以て壁際に下げられていた椅子の一つに飛び乗る。さらにそれを蹴り潰しつつ再度跳躍、さらに離れた位置の椅子に飛び乗った。

「我ら親子、江湖に生きる身なれば、当然ながら紅袍賢人の異名も聞き知っております。さすがの私も紅袍賢人の技を受けきれる自信はない。しかしこの位置ならばいかに紅袍賢人と言えど追っては来れますまい」

「何をバカなことを! 卓を出たら負けだと言ったのはそちらじゃないの!」

 月圓が指を突きつけ非難すると、壬克秀はくすりと口元を綻ばせる。

「李姑娘、しっかり聞いておられなかったようですな。敗北となるのは「体が床に落ちたとき」だ。卓を出ただけでは敗北とはならない!」

「そんな……屁理屈よ!」

 しかし、確かに「体が床に落ちたとき」が敗北の条件であった。壬克秀は確かに勝負の条件を逸していない。そして今、壬克秀の体は李客の乗った円卓からはるか遠くにある。いくら何でも助走なしでこの距離を飛び越えるのは難しい。壬親子は最初からこうするつもりで円卓の配置を仕組んでいたのだ。

「私はここでゆっくり、白殿が敗北するのを待たせていただく」

「卑怯者め!」

 激昂のあまりに飛び出しそうになる月圓を、しかし李客が止めた。

「まあ待て、月圓。確かにこの勝負、そのような抜け道があったと気づけなかったこちらに落ち度があった。出題側は当然、自らの有利になるよう罠を仕掛けるものだからな」

 月圓は何も言えない。先の対聯勝負、あれも本来は李家に有利な出題だったのだから。

 だが、と李客は続け、口元を歪めた。悪戯を思いついた悪童のような表情だ。

「果たして、その策は完璧であったかな?」

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