第四節 勝負の行方

 李白と壬烈華の卓は広間の中央にあり、卓から飛び移る事のできる椅子など無い。逃げ場はなかった。

「うっひゃあっ! これは困ったことになったわい」

 壬烈華の猛攻を受けながら李白は叫んだ。今のところ直撃はしていないが、ジリジリと縁へ追い込まれている。

「この勝負も我ら親子の勝ちだな。さあ、とっとと落ちよ!」

 横あいから弧を描いて壬烈華の貫手が襲いかかる。が、そちらは陽動。真の攻撃は真下から襲い来るもう一方の貫手だ。なんとか受け流したが、また一寸ほど後退させられる。

 壬烈華も鏢局を生業とする身の上、老齢に差し掛かって衰えるどころか技の練度は若輩の及ぶところではない。加えて潜ってきた修羅場の数も違う。虚の中に実を混ぜ、実の中に虚を織り込む技量もまた比類ないものだ。仮に李白が紅袍賢人の武芸をそのまま受け継いでいたとしても、内力禁止のこの勝負では壬烈華が優位に立つ。

 しかしながら壬烈華は一方で焦ってもいた。己が有利であるのは間違いない。しかし李白が存外巧みに避け、見込みよりもはるかに勝負が長引いたためだ。長期化すれば壬烈華の体力が先に尽きるだろう。壬克秀は詭弁を弄して安全地帯へ逃げたが、紅袍賢人がどのような策を打ってくるかわからない。今のうちに早く勝負をつけなければ。

(ならばこうするまで!)

 スゥッ、と息を吸う壬烈華。李白がはっと瞼を動かしたのが見えた。こちらの意図に気づいたのだ。壬烈華は構わず技を繰り出した。両の貫手を交差するように突き出し、喉を挟み込むよう強襲する「こう」の技。しかも内力が込められている。触れずともその余波だけで李白を突き飛ばすには十分だ。

「おい、何をする!」

 叫んだのは、しかし李白ではない。壬烈華はぎょっとして視線を横へ。叫んだのは壬克秀だったのだ。注意が一瞬逸れた瞬間、李白の体がすとんと落ちた。わざと自分からその場に腰を落として「蛟」の攻撃から逃れ、さらに壬烈華の踏み込んだ足を蹴りつけた。前方へつんのめった壬烈華の下腹に足を添え、さらに押し上げる。空中で一回転して壬烈華の体は李白を飛び越え、卓外へと落下した。

 ははは、李客の笑声がまるで嘲笑のように響いた。

「卓から落ちると負け、それは白児とお主のことだ。わしは言ったぞ? 白児と克秀殿のいずれかが床に落ちたときを決着とするのだな、と。壬鏢頭は否やを言わなんだな」

 李客は壬烈華に対して言ったのではない。壬烈華がさっと視線を向ければ、李客はすでに自ら卓を降り、悠々と壬克秀の乗った椅子に一歩また一歩と近づいているではないか。なるほど、確かに取り決めでは「李白と壬克秀と、そのどちらかが床に落ちれば負け」であった。であれば、それは壬烈華も同じである。壬家は未だ勝ってはいないが、負けてもいない。

「くそっ、屁理屈を捏ねるか!」

 先に屁理屈を押し通したのはどちらであっただろうか。壬克秀は李客から逃れるべく、足首を椅子のひじ掛けに絡ませ跳躍。椅子ごと飛び退こうとした。が、それを察知した李客が縮地の神業を以て接近する方が早かった。空中の椅子をむんずと掴むや、気合一声振り投げる。壬克秀の体は今度こそ何もない床へ向かって転落する!

 瞬間、壬烈華が李白の乗った卓を両の掌で打った。わっと叫んで李白が卓面にしがみつく。横滑りした卓は間一髪で壬克秀の真下に潜り込んだ。これはつまり、李白の上に落ちたということである。

「ぐげーッ! 何を勝手にわしを尻に敷きおるかっ! 不細工が感染うつったらどうしてくれるんじゃ!?」

「黙れ、敷布団にもならん愚図が!」

 両者同時に飛び起きる。こうなれば直接対決とばかり、瞬く間に拳打脚蹴の応酬を開始した。が、こちらは数手も行かぬうちに優劣が明らかとなった。直前まで壬烈華と手を交えていた李白はすでに肉体も精神も臨戦態勢にあった。一方、壬克秀は逃げの一手から思いがけずこのような状況へ放り込まれた。壬克秀は技が出遅れ、必然的に李白が優勢を占めたのである。

「ダメじゃダメじゃダメじゃダメじゃダメじゃ――ダメじゃッ! こんな弱っちょろい奴なんぞに妹は任せられんわっ!」

 追い詰められた壬克秀、とうとうその足が縁を踏み外して転落しかけた。が、何を思ったか李白はその両手首を掴み取って引き寄せる。何事かと思われた瞬間、引き寄せた腕を左右に弾き飛ばし、胸の真ん中に掌打を叩き込む。取り決め通り内力が込められていないため威力は大したことがないが、もしも実戦ならば肺腑が破裂しているところだ。また仰け反りそうになった壬克秀を、またも両腕を取って引き寄せる李白。今度は両脇腹に貫手が突き込まれた。引き寄せては打ち、また引き寄せては打つを繰り返す――絶招「饕餮とうてつ穿牙せんが」だ。

「もうちょっと鍛え直して、百年後に来いや!」

 三回目の掌打が胸と同時に顎を打ち上げる。壬克秀の体はまた宙に投げ出され、今度こそ床に落ちるかと思われた。が、李白が壬克秀を押し出した先には壬烈華が待ち受けていた。床を蹴って跳躍するや、空中で壬克秀を受け止める。だけでなく、着地するやぐるりと腰を捻って回転を始めた。遠心力で壬克秀の体を浮き上がらせ床に触れないようにしているのだ。そしてもう一度跳躍、李白の乗った卓へと飛び移る!

「待て待て、さすがに三人は乗り切れん!」

「ではお前が降りろ!」

 壬克秀が全体重と遠心力の加わった蹴りを送り込む。李白は腕を掲げて受けたが、当然受けきれるものではない。今度は李白が卓から押し出された。

「白児、こちらへ!」

 李客の蹴りが空の円卓を蹴り飛ばした。李白は空中で捻転、滑り込んだ円卓上へ坐盤ざばんの脚形で乗る。両掌を掲げて構えたところへ、背後に李客もまた飛び乗り「招迎客手」で構えた。一方の壬家もまた卓上で各々構えを取る。壬家李家、互いに向かい合った。

「李鏢頭も白殿も、やるではないか」

「壬鏢頭と克秀殿も素晴らしい腕前。しかし――この勝負、李家がいただく」

 言いつつ、しかし李客は構えを解いた。勝負を続けると発言しておきながら、なぜ? その意味を壬烈華が悟ったのは、足元が軋みを発してからだった。

「なにっ!?」

 気づくのが一瞬遅かった。壬親子の乗った卓は乾いた音を立て、突如真二つに割れたのである。壬烈華も壬克秀も、揃って足場を失い床に転がった。何が起こったのか、それは卓面に残された窪みを見れば一目瞭然であった。李白は蹴り飛ばされて卓外に出たが、それより一瞬早く、足裏のわずかな踏み込みだけで天板に亀裂を入れていたのだ。

「お父様と兄さんの勝ち!」

 月圓が満面の笑みで飛び跳ねながら手を叩く。卓から降りた父親と兄へ抱き着くのを、壬烈華は直視できなかった。ただただ拳を握り締め、奥歯を噛み締めるしかなかった。

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