第五節 袁夫人来訪
円卓は即座に使用人らによって撤去された。そうして広間の中央で李家と壬家、双方並んで向かい合う。
さて、と壬烈華が白龍杖を握り締めながら声を絞り出した。
「これで互いに一勝一敗。残り一つの武の勝負、如何する?」
問われた李客は、しかしすぐには返答しない。
先の勝負はついつい興が乗ってしまったが、武技に誇りを持つ壬家を相手に少々やりすぎたところがある。できれば最後の勝負は穏やかに勝ちを収めたい。さもなくばどちらが勝っても紅衣鏢局と壬龍鏢局との間に確執が生まれる。上策としてはここでうまく話をつけ、双方引きさがるよう仕向けたかった。さて、どう仕向けたものか……。
考え込む素振りを見せていたところ、やにわにバタバタと何者かがやって来たかと思えば、文字通り広間へと転がり込んだ。李家の使用人の一人だ。
「大変です、旦那様、お嬢様! あ、あれっ? 若旦那、いつお戻りで?」
「おい、一体何事だ?」
すっかり李白に気を取られていた使用人は、李客のその一言ではっと我に返る。
「あっ、そうだ! バケモノです。旦那様、バケモノが敷地に!」
「鏢頭! 大変だ! 呉八が殺られた!」
使用人の言葉をかき消すように、武装した一団が雪崩れ込むように広間へ駆け込んだ。誰もかれも武器を手にしているが、中にはぽっきりと折れてしまった剣もある。一様に焦った様子で顔面は蒼白、返り血を浴びた者もいた。李白は彼らの顔に見覚えがあった。門前で馬車の側にいた壬龍鏢局の鏢師たちだ。
ただならぬ様子に壬烈華も表情を変える。
「何事だ。何があった!?」
「袁夫人です!」
鏢師の一人が叫ぶ頃には、すでに回廊の奥からズシンズシンと地面を揺らしながら歩み寄る振動が伝わってきていた。そして鏢師がヒィッと息を呑むと同時、広間の入り口に巨大な影が立った。
「他人様をバケモノだなんだと、使用人の躾がなっちゃいないのね。この家は」
その姿に誰もが度肝を抜かれた。言いがかりをつけながら広間に入ってきたのは女。まだ年若いが、せっかくの美貌を両頬に刻まれた左右三条の掻き傷が損なっている。身に纏っているのも裾がボロボロにほつれた道士服。手には
だが最も目を引くべきは彼女自身ではない。彼女の両脚はぶらりと力なく宙に垂れている。ではどのようにして移動しているのかと言えば、彼女はソレの肩に腰かけていた。ソレとは、身の丈三丈はあろうかという巨大な猿だ。左の額と、胸に斜めの傷跡がある。だらりと下げた右手は鮮血に染まっており、今しがた何かの命を奪ってきたのは明らかだ。
巨猿は落ち窪んだ眼窩の奥から鋭い視線で目前の人間どもを睥睨する。睨まれた側の男たちは何とかその場に踏み止まったが、月圓だけは小さく悲鳴を上げて兄の背中に隠れた。
「事前に便りを頂けたならばこちらも歓待したものを。斯様に不躾に参られたのではお迎えのしようもない。何卒ご容赦を。――して、李家に何のご用件かな?」
物怖じする様子を一切見せず、李客が慇懃無礼に応対する。押し入っておきながら何を勝手な、との含みは当然相手も理解したろう。ふふんと笑って、しかし袁夫人は鉾を持った手を左右に振る。
「実のところ、あなたに用はないの。私が用のあるのは、壬鏢頭、あなたよ」
鉾の先端を壬烈華へ。壬烈華はわずかに身構えた。
「ほほぅ? 袁夫人にお会いするのはこれが初めてのはず。さて何のご用向きか」
「簡単なこと。その手にある白龍杖、こちらへ渡してはくれませんか? 我らが宗主様がご所望なのです」
「なんだと!?」
ガンッ! 白龍杖が床を突く。力を込め過ぎたため、その石突は地面にめり込んでしまった。弁償じゃな、と李白が厭味ったらしく呟いたが、誰もがそれを無視した。
「白龍杖は壬龍鏢局の宝、易々と他人に譲り渡せるものではないッ! ましてや貴様のような悪女になど、断じて渡せぬッ!」
「そうですか、それならば――
袁夫人が鉾を繰り出す。それと同時、彼女を乗せた巨猿もまた動いた。オォン、と唸りながら右腕を突き込む。鉾と巨腕と、それぞれが同時に左右から壬烈華を襲う。壬烈華は白龍杖でまず鉾を受け止めた。チィン、青い火花が散る。その鉾の表面には蛇の蛇行するような波紋が。
「これはまさか、
驚愕と共に壬烈華は後方へ飛んだ。一瞬遅れて猿の巨腕が薙ぐ。
「張飛鉾は中天幇会壊滅の折りに行方不明となったはず。それがその手にあるということは、やはりお前たちの仕業だったのだな!」
「ええそうよ。それがどうしたの?」
「鏢頭!」
袁夫人が第二撃を繰り出そうとするのへ、硬直していた壬克秀はじめ壬龍鏢局の者どもが一斉に袁夫人へ襲い掛かった。狙いは袁夫人ただ一人。巨猿を操っているのが彼女ならば、操り手を先に落とすのが常の策だ。それに巨猿の左腕は左肩に乗った袁夫人を安定させるために添えられ塞がっている。故に、彼らの左側は大きな隙があったのである。
だが袁夫人は彼らを一瞥するや、にやりと嘲笑した。
「愚かね、実に愚かよ!」
瞬時に引き戻された鉾が閃光を発して宙を斬り裂く。カンカンカンカンカン! 鏢師たちは同時に弾き返され、武器を持つ手を押さえて下がった。
「白児よ、見たか? 今の技を」
「もちろんじゃ。あれは「
壬龍鏢局が死闘を繰り広げる一方、李家一行は距離を置いて見物を決め込んでいる。それどころか、李客と李白に至っては呑気に技の研究を始める始末だ。
「お父様、兄さん、あの方をご存じなの?」
「いや、知らん」
月圓の問いに二人揃って頭を振る。
「わしはここ数年山に籠っておったのでな、最近の事情には疎いんじゃ」
「噂だけならよく聞くぞ。なんでも、新婚の男女ばかりを狙って惨殺を繰り返す狂人だとか」
「まあ、怖い! でもあの人の技、お父様の武芸とそっくりなのはどうして?」
「大方どこぞでこやつの書き散らかした武芸書を拾って読んだのじゃろうな。まったく迷惑な話じゃ! そら見ろ、次は「
李白が発した瞬間、まさしく袁夫人の鉾は飛燕が空中で一回転するかの如く繰り出された剣尖を巻き取り、次いで鳥が水中の魚を
「李鏢頭! 一体何のおつもりか!?」
壬克秀が怒りも露わに怒鳴る。しかし李客はどこ吹く風。
「何のつもりも何も、こちらはただ息子と武芸の研鑽に励んでおるだけのことだ。気にすることはない。――さて白児よ。あの位置で「紫雲乗風」を繰り出す欠点はなんだ?」
「そんなこと、わざわざ問うまでもなかろうが。「紫雲乗風」は上方の攻撃を払う技。それをあの高さで繰り出せば、下方の守りが疎かになるってもんじゃ」
壬克秀はそれを聞くや、さっと左右の鏢師に目配せする。また一斉に袁夫人へと飛び掛かる。上方からの刺突と斬撃が袁夫人を強襲する。袁夫人もまた李客と李白の問答は耳にしていたが、この状況で「紫雲乗風」を繰り出さないわけにはいかなかった。たちまち下方の無防備を晒す。そこへ壬克秀が鉄扇を突き込んだ。
「――まあその場合、「
袁夫人の反応は早かった。鉾の握りを入れ替えるや、瞬息で鉾先を下へ。一気に真下へ突き込んだ。壬克秀は慌てて退いたが、鉄扇は鉾に貫かれてバラバラとなった。壬克秀の全身からどっと冷や汗が吹き出る。退くのが一歩遅ければ壬克秀自身の腕がバラバラとなっていた。
「李白っ、貴様! こいつに味方する気か!?」
「味方も何も、争っておるのはお主らであって、わしらは一切無関係じゃ。こちらの雑談を聞いて勝手に窮地に陥ったとて、それはそちらの過失じゃろうに」
李白の我関せずのこの発言は壬龍鏢局一同を激昂させるに十分だった。今すぐにでも斬りかかりたいところではある。が、今は目先の袁夫人を相手取るだけで精一杯だ。
「おい李客! 貴様も何を傍観しておるのだ。早く加勢せぬかっ!」
壬烈華が叫ぶ。こちらも巨猿を相手に苦戦していた。何しろこんな相手はいかなる武術であっても想定外だ。それに下手に受けて捕まりでもすれば、たちまち握り潰されて血袋にされよう。白龍杖を振るって打ち込んでも、まるで岩を打つかの如き手応えだ。
「これは幾人もの男女を惨殺した極悪人だぞ。江湖の英雄ならば見捨ててはおけぬはず。紅袍賢人の名が廃るぞ!」
「廃るもなにも、もう江湖の荒事からは足を洗ったつもりなのでね。進んで面倒にかかわるつもりはない。……ああ、修繕費は後で請求させてもらうとしよう」
壬烈華の奥歯がギリギリと軋んだ。このままではいずれこちらが押し負けるだろう。かといって李客に、紅衣鏢局に頭を下げて助力を乞えば、それこそ壬龍鏢局の名を落とすことになる。さてこの窮地、どう切り抜ける?
瞬間、天啓が下った。
「――残り一つの武の勝負、壬家と李家のどちらがこの敵を退けるかで勝負しよう!」
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